禅師は淹れるのを止めず、お茶は茶器から溢れ出てしまいました。(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 ある日、1人の知識人が禅師を訪ねてきました。 その知識人は、自分は現代の新しい知識を持っていると思い、禅師の前でその知識をペラペラと話しました。

 禅師はいつも通り、茶器を出し、お茶を注ぎながら、じっと相手の話を聞いていました。 その時、お茶は既に満杯となっていましたが、禅師は淹れるのを止めず、お茶は茶器から溢れ出てしまいました。

 そこで、知識人は「 お茶はもういっぱいですよ」と言うと、禅師は優しい笑みを浮かべながら、「ああ、お茶はもう満杯になってしまったな。あなたはこの茶器のようだ」と独り言のように言いました。

 知識人はすぐにその真意を悟り、自分の独りよがりな態度を改め、素直に禅師に助言を求めたといいます。

 これは明治時代の禅僧、南隠全愚(1834~1904)の逸話として現代に伝わっているものとされています。

 古くから「満は損を招く、謙は益を受く」と言う言い伝えがあります。

 古代中国では、「宥坐(ゆうざ)の器」という水汲み容器があり、別名「欹器(きき)」とも呼ばれています。「宥坐の器」は、水が空のときは傾き、半分ほど入るとまっすぐ立ち、満杯になると転覆する仕組みとなっています。古代の人々は、この「宥坐の器」を席の右側に配置して、自分の戒めとしました。それは「座右の銘」の語源だと言われています。

室町時代後期・戦国時代の画僧である雪村(1492年―1589年)が作成した「孔子観欹器図」の一部(大和文化館所蔵)

 孔子は、「世の中の万事、すべてこれと同じだ。結局満ちて覆らないものはない」と、「宥坐の器」を例にして、「知を持つ者は愚を自覚し、功績を持つ者は謙譲の心をもち、力を持つ者は恐れを忘れず、富がある者は謙遜を忘れずに正しい姿勢を保て」と説き、弟子たちに謙虚さを持って人と接する方法を教えました。

 人は社会的地位や名誉、権力、知識等を手に入れると、満ち足りて驕り高ぶってしまいがちです。謙虚な気持ちを忘れ、慢心してしまう人は、やがてひっくり返り、苦労して得たものを失ってしまうでしょう。

 南隠禅師は茶器に溢れるほどのお茶を淹れて、とうとうと語るばかりの知識人に、「満ち足りることを戒め、中庸の徳、謙譲の徳の大切さ」を伝えようとしたのではないでしょうか。

足利学校宥坐の器の動画:

(文・一心)