古代の郵駅(ネットより)

 現代社会は情報社会とも言われています。テレビ電話やインターネットを通じて、数千キロ離れた人々でも簡単にコミュニケーションを取ることができるからです。しかし、インターネットや電話のない古代では、人々はいったいどのように情報伝達をしていたのでしょうか。

 今回は、古代人の情報伝達方法の話をしたいと思います。

 (一)音、火、そして煙

 歴史に文字が登場して以来、かつて人間は音や火、煙等を使って情報伝達を行っていたという記録があります。それらには太鼓や旗、鐘等が手段として使われていました。アフリカの原住民の多くは、複雑な太鼓言葉を使っており、中国のミャオ族やワ族等も、太鼓で情報を送る方法を使用し、現在でも使われています。

 東周の前期(紀元前770〜紀元前403年)では、音と光を用いて情報伝達をする方法が軍隊の中で既に広く使われていました。当時の軍事家である孫臏は『孫臏兵法』の中で、敵を発見したら「夜は太鼓を叩き、昼は旗を挙げ①」と述べています。

 「太鼓を叩けば攻め、銅鑼を鳴らせば撤退せよ」は、古代軍隊の号令でした。銅鑼は、銅製の円形の打楽器で、主に軍隊が撤退する際に使用していました。

北京市にある鐘楼(イメージ:Wikimedia Commons / smartneddy CC BY-SA

 「暮鼓晨鐘(ぼこしんしょう)」と言う言葉は、仏寺で朝と夜に鐘と太鼓を打ち鳴らす風景を表現するものです。古代中国では、各町に鐘楼鼓楼があり、平常時には鐘と太鼓を打ち鳴らして時間を知らせ、緊急時には警報を発していました。清代では、午後の7時になると、太鼓を打って鐘を鳴らし、城門を閉め、翌朝の5時になると、太鼓と鐘を打ち鳴らし、城門を開けていました。1924年、ラストエンペラーの溥儀氏が紫禁城を去ってからは、鐘と太鼓の音は北京から消えてしまいました。

 狼煙と烽火も古代の情報伝達の手段でした。古代中国では、烽火台、狼煙台等は、国境から国内へと戦争の情報を伝達する重要な役割を果たしていました。古代の人々は、国境や険しい場所、要塞等で、高台を間隔的に建て、そこに柴草を用意し、非常事態が発生した際、昼には煙を上げ、夜には火を焚き、次から次へと情報を伝達していきました。

 「烽火で諸侯を弄(いじ)くる」と言う言葉がありますが、これは、西周(紀元前1045〜紀元前771年)の幽王が寵妃を喜ばせる為、烽火台の兵士に烽火を上げるよう命じ、嘘の情報を伝達させた結果、国を滅ぼしたことから来ています。これは悲しい出来事でしたが、当時の情報伝達における「烽火台」の重要性を示した一面もありました。烽火で情報を伝達する方法は周の時代に始まり、清の時代まで使われました。

 (二)郵駅制度

 秦の始皇帝は六国を統一すると、都の咸陽から各国への馳道(ちどう)を整備しました。これは現代の高速道路に近いものです。その後の歴代皇帝も建設し続け、その結果、郵駅システムが次第に形成されていきました。郵駅には陸駅、水駅があり、道路や水路に一定間隔で設置され、駅には配達員や馬、船などが整備され、リレー方式で情報等を送りました。配達スピードは情報の緊急性等によって異なり、徒歩、騎馬等に分けられました。

中国の内モンゴルのオルドスに残っている秦の馳道の一部(ネット写真)

 唐代では、中国全土に1,639の郵駅と約2万人の配達員が配備され、システムが非常に発達していました。欧陽修の『新唐書』には、「楊貴妃は茘枝を好むため、皇帝玄宗は、鮮度が落ちる前に長安まで1000キロも人馬を使って茘枝を運ばせた②」と記録されています。この事は唐の郵駅制度の発達と効率の高さを物語っています。

 また、有事の際には、軍事情報を迅速に伝達することができました。例えば、安史の乱の際には、安禄山が蜂起してからわずか6日後、1500キロも離れた都では、既にその情報が伝わっていました。その他には、南宋の皇帝高宗は戦場の岳飛に「12通の金牌」を送り、臨安に召喚しました。金牌を送るのは1日に250キロ走る速達という方法でした。

 (三)古代の情報告知

 古代では、馬に乗って情報を告知する方法がありました。それは特定の人物や機関ではなく、途中偶然に出会った兵士や庶民など不特定多数の人に知らせるというものです。木の板や布に情報を書き、馬に乗った人がそれを持ち上げ、道沿いで人々に告知したり、紙に情報を書いて配布したりしていました。

 (四)伝書鳩

 手紙を届けるために鳩を訓練するのは、中国に限ったことではありません。3000年前の古代エジプトでは、長距離飛行しても道を迷わない鳩や雁を利用して手紙を送らせていました。

(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 西洋における伝書鳩の最古の記録は、古代ギリシャにありました。当時、あるオリンピック選手が優勝した後、故郷の両親に一刻も早く朗報を伝えるため、紫色の鳩を飛ばしました。唐代の『酉陽雑俎』と言う書物には、「海を渡ってきたペルシャ商人が船で鳩を飼い、旅が進むと鳩を飛ばし、家族に無事を知らせた③」という記載があります。

 東洋における伝書鳩に関する最古の記述は『山海経』に遡りますが、殆ど神話的なものだと看做されています。それによると、西王母の玉座の前には3羽の聖鳥がおり、そのうちの1羽は「青鳥」と呼ばれ、手紙を送ることに特化したメッセンジャーでした。そして、大禹は西王母の助けを得て、洪水を治めることに成功した後、「青鳥」の紹介により、鐘山に行き、西王母に直接お礼を申し上げたというのです。

 唐代の宰相の張九齢は幼い頃から鳩を飼いっている鳩好きで有名です。彼は書信を送る際に、書を鳩の足に結びつけて飛ばせました。

 また、宋の皇帝高宗も愛鳩家でした。皇帝の身でありながら、朝晩必ず自ら鳩を飛ばし、また巣に戻らせていました。宋の時代では、伝書鳩は既に民間における通信の手段となり、生活の中で重要な役割を果たしていました。

 以上、古代の人々の情報伝達の方法をいくつか紹介しました。これらの古代の情報伝達手段は、既に過去のものとなりましたが、当時のニーズに合致して、多くの物語や逸話を残してくれました。

 出典:
 ①『孫臏兵法』
 ②『新唐書:列伝第一 後妃上』
 ③『酉陽雜俎・卷十六・廣動植之一』

(翻訳・一心)