北京の旧市街地の北に位置する鼓楼(イメージ:Wikimedia Commons / Czzhermit / CC BY-SA

  北京鐘鼓楼とは、北京の旧市街地の縦中心軸の北端に位置する古代の建築群です。鐘楼と鼓楼の二つの楼が綺麗に並び、雄大で壮観に見えます。元・明・清の三代の王朝の都の時間を知らせる建物として、長い歴史があります。

 鼓楼が建てられたのは元王朝の至元9年(1272年)で、当時は「斉政楼(さいせいろう)」と呼ばれていました。その意味は「七政(日・月・木・火・土・金・水)を斉める(おさめる)こと」です。その後、元末明初の戦火により焼失されたため、明王朝の永楽18年(1420年)に、斉政楼の跡地に鼓楼が建てられました。清代の著書『北遊錄』の記載によると、鼓楼は清王朝の順治11年(1654年)にすでに鼓楼本体が無くなり、基盤しか残されていませんでした。その後修復工事が嘉慶5年(1800年)と光緒20年(1894年)に行われ、現在の姿になりました。

 鼓楼は、高さ4メートルの石基盤の上に建てられ、幅56メートル、奥行き33メートル、高さが約46.7メートルあります。南側と北側はレンガの階段があり、東側と西側は石の坂になっています。鼓楼の南門の両側に、高さ約1.25メートルの石獅が2頭置かれています。楼には、南北側にそれぞれ3枚、東西側にそれぞれ1枚の券門(けんもん)があります。

 北側の東券門から入ると、南方向に45度傾いた60段の階段があり、その階段を登ると、西方向にまた45度傾いた9段の階段があります。計69段の階段を登れば、二階に辿り着きます。36本の木柱で支えられる二階の四方には6枚の四方形の障子が設けられ、床は正方形の煉瓦で全面に敷かれています。部屋から外へ出ると、1.3メートル幅のベランダがあり、木製の手摺が設けられています。二階の面積は1,925平方メートルで、三階は入れない屋根裏であるため、登る階段がありません。

 広々とした二階の広間には、「二十四節気」を表す24面の小太鼓、「一年」を表す大太鼓、計25面の更鼓(こうこ)が置かれていましたが、義和団事件の際に破壊され、今は壊れた大太鼓だけ残されています。その大太鼓は、長さ2.25メートル・胴の直径1.71メートル・面の直径1.4メートルで、雲紋が刻まれた赤い漆塗りの太鼓台に置かれています。

 鼓楼に置かれた最初の時計は「漏壺(ろうこ)」という銅の水時計で、漏刻が置かれる部屋は「漏壺室」と呼ばれていました。清王朝になると、水時計の代わりに香時計が起用されました。香時計も太鼓叩きも専任の方が担当していました。

 鼓楼に置かれている太鼓と、鐘楼に置かれれている鐘は「晨鐘暮鼓(しんしょうぼこ)」という言葉のように、太鼓と鐘は同じ律で奏でられ、韻も通じ合っています。朝廷の政事と百姓の暮らしは皆、この太鼓と鐘の音に準じて進めていましたが、清王朝の衰退により、鐘鼓楼の時報の役目が日に日に失われました。

 太鼓の起源は上古世紀に遡ります。伝説によると、牛のようで角のない大きな怪獣・夔(き)がいました。その夔を捕まえ、夔の皮を使って太鼓を作り、鼓音で敵を怖がらせる黄帝(こうてい)が、蚩尤(しゆう)との戦いで勝利を手に入れたとの話があります。そのため、太鼓を初めて作ったのが黄帝だったと伝えられてきました。太鼓にまつわる話が「伊耆氏(いきし)」や、『世本(せほん)』に「夷(い)の太鼓作り」、「巫咸人(ふかんじん)の太鼓作り」などの記載があります。

 上古世紀から鳴り続けてきた中国の太鼓の音、心を震わせる鼓楼の鼓音が、明王朝から今日に伝わり、そしてはるか先の未来にも鳴り続けるのでしょう。

(翻訳・常夏)