(イメージ/ 看中国・合成写真)

 数日前のある晩、バルコニーで衣服を乾かしている時、近くの木からセミの大きな鳴き声が聞こえてきました。 私が住んでいる町は木が多く、夏にセミがいても珍しくないのですが、その時はまだ6月、私は「セミが鳴き始めるにはまだ早い」と感じました。

 私は驚きと嬉しさのあまり、息子を呼び「窓を開けて聞いてごらん」といいました。今年初めてのセミで、林の中のこの一匹の声だけなので、真夏のセミの「大合唱」とは異なりますが、夜静かな時に鳴き始めると、より高らかに響きました。

 しかし、その日の深夜から激しい雷雨が降り始め、滝のような雨と共に轟音と閃光を伴った雷が夜明けまで続きました。激しい雨は翌日も降り続き、ついには水害を引き起こしました。三日目、ようやく晴れましたが、極端な天候のせいで、「今年初めてのセミ」の声は聞こえなくなってしまいました。

 夕方、私は息子にセミの話をしました。一般的なセミは長い間(5年、7年、13年、17年など)地下で成長し、やっと地上に出て木の枝に登れるようになっても数日間しか歌えません。まるで花火のようなその命は、咲いてすぐに消えてしまいます。

 息子はその事を知らなかったようで、しばらく考え「父さん、この事は進化論が間違っていることを証明できるよ」と言いました。「へぇー、それは本当に面白い、関係があるのか?」 私は思い付かなかったので、彼に説明してもらいました。

 息子は、「進化論の基礎は、生物が生き残るために、環境のニーズに合わせてより効率的に進化し、環境に適応することです。しかし、セミは数年から十数年間地下に住み、やっと出て来ても数日鳴くだけで、まったく進化していません。こんな生き方はとても非効率なので、もっと早く淘汰され絶滅するはずです」と説明してくれました。

 「おぉ!まさか息子がこれほどの洞察力を持っているとは…」。私は息子を称賛し「私も進化論は間違っていると思う。なぜなら、すべての生命は特に人間に対し別の意味を示していると信じているからだよ」と答え、「じゃあ、セミのような特別な生き方が、人間に対しどんな意味を示しているか考えてみないか?」と聞きました。

 私は、息子が「人生はとても短いので、有意義に過ごすべき」などと答えるだろうと予想していました。しかし、真剣に考えた末の彼の答えに、私は驚きました。

 「セミの一生は古代の修練者の話にそっくりです。修練者は洞窟の中や木の下で、或いは山の壁に向かって数年から数十年間座禅を続けます。最後に突然『悟り』を開き、万物全てが判るようになり、生命の頂点に達します。まるで、地中から出てきたセミのように…。しかし、最も素晴らしく最も重要な瞬間は短く、その後、修練者が得道し天国に昇っていくのも、セミの生命が尽きて天国に帰るのに良く似ています」と息子は答えました。

 私はそんな意味が含まれているとは思ってもみなかったので、息子の理解を大いに称賛しました。
「本当にそうだったら、セミの生命の意味はとても素晴らしいね」

 そう言ってすぐに、私はまた別の話を思い付き、「セミの一生と修練が似ているという話は道理に適っているけど、セミには別の名前があるのを知っている?」と面白そうに息子に聞きました。

 今度は、学校で学んだこと以外の知識が足りないのか、息子は答えられませんでした。私は微笑みながら息子に「セミのもう一つの通称は『知了』で、『知るの“知”』と『了解の“了”』という意味だよ。これは君が今話した修練して悟りを開くという話と完全に一致しているでしょう!」と話しました。

 息子と私は互いに微笑みながら、お互いを賞賛しあいました。 最後に、息子は「セミを蝉と呼ぶのは、裏にそのような『禅』の意味があるからだね」と言いました。

 この「今年初めてのセミ」は、土の中に何年も潜伏し、地上の世界に現れてたった一日しか存在しなかったのに、私たち親子は幸運にもその声を聴き、このような素晴らしい人生の対話と意味を理解できました。

 「今年初めてのセミ」がもたらした禅に溢れた心に感謝します。

(文・張季民/翻訳・篤修)