清・王原祈「輞川図」(Wang Yuanqi, CC0, via Wikimedia Commons)

 臣下として、皇帝へ貢物を差し出す「進貢(しんこう)」をすることは、古くからあった自然なことです。しかし、進貢をすることは容易なことではありません。特に、粗悪品・虚偽品を良品・真品に偽り、貢物をしてしまうことは、皇帝を欺く「欺君の罪」という大罪であり、絶対にやってはいけないことなのです。ところが、清王朝期に、ある大臣が皇帝に献上した一枚の絵画は、皇帝に「贋作」と言われ、その大臣を死刑寸前にまで追い込む事態になったのです。一体どういうことなのでしょうか?

 この贋作疑惑の物語の主人公は、清王朝期の大学士・張廷玉(ちょう・ていぎょく)です。字は衡臣で、安徽桐城出身の張廷玉は、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代の朝臣であるだけでなく、唯一、死後に「太廟(註)」で祭られる資格を持つ漢族の大臣です。康熙三十九年(紀元1700年)に進士及第して以来、康熙帝の時代で刑部左侍郎を任じられ、雍正帝の時代で礼、戶、吏の三部の尚書、保和殿大学士、軍機大臣等を任じられ、乾隆帝の時代では太保の位を得ました。三代の朝臣である張廷玉はあのとき、なぜ贋作の絵画を皇帝に献上しようとしたのでしょうか?

 雍正十一年(紀元1733年)、張廷玉の長男・張若靄(ちょう・じゃくあい)は第三位の成績で進士に及第します。雍正帝は張若靄に祝宴を下賜したほか、張廷玉とともに、故郷の安徽桐城への帰省休暇を許しました。

 張廷玉は桐城に着くと、絶え間なく来訪者を招待する毎日を過ごしていました。それでも、朝臣である張廷玉は、地方の故郷にいながらも、国と皇帝のためにできることなら力を注ぎたいと思っていたのです。国民を思う雍正帝は賦稅を減らし、水利を興したため、国民の生活はとても豊かになりました。雍正帝の施しにより、国は平和を迎えて、張廷玉の目の前の故郷・桐城の光景がまさに経済的繁栄の象徴にもなっていました。

 新しく探花になった張若靄は、時の戶部侍郎である画家・王原祈に師事して、王の画工をうまく習得できました。せっかく父と一緒に帰省ができたこの機会に、故郷の光景を絵画に描こうと、王原祈の作風を倣い、張若靄は『大清子民楽居の図』という水墨画を描きました。張廷玉もこの水墨画を大変気に入り、京に戻る際に雍正帝に献上しようと考えました。

 帰省休暇が終わり、張廷玉は京に戻り、雍正帝に謁見し、用意した張若靄作の『大清子民楽居の図』を献上しました。書画を好む雍正帝ならきっと、この水墨画を高く評価して下さるだろうと思った張廷玉でした。ところが、雍正帝は画を見るやいなや、眉間にしわを寄せ、怒りを覚えたように顔をしかめたのでした。

 しばらくして、雍正帝は「これは贋作だ。大家・王原祈の作風を完璧に模倣している。王原祈の作品を研究しなかったら、朕は騙されるところだった。この朕を騙そうとしている不貞者は一体誰だ?」と、ついに声を荒げました。

 張廷玉は慌てて跪き、「これは、王原祈に師事した、長男の張若靄が描いた作品なのです」と弁明しました。

 雍正帝が落ち着いたのを見て、張廷玉は「我々父子は帰省させて頂き、故郷にいる民と共に安定した生活に満足する治世を見てきました。この喜びをどうしても抑えきれず、見聞きしてきたことを一枚の絵にして、皇帝陛下に献上する次第でございます」と続いて語りました。

 張廷玉の言葉を聞いた雍正帝は、怒りを鎮め、とても嬉しくなりました。

 張廷玉は雍正帝に絵画を献上したのは、長年国事に勤しみすぎたせいで体が日に日に弱くなっている雍正帝を見て、地方の国民の安定した生活の実態を絵画にしてお届けしたのです。国民の生活は十分向上したのでこれ以上の奮励努力には及びませんと、雍正帝に伝えたかったからなのです。張廷玉の忠誠心の表れでしたね。

 康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代の朝廷において、張廷玉の一族は大変長く仕えてこられ、三代の皇帝の恩寵を長らく頂きました。張廷玉の父・張英は大学士として勤め、張廷玉も大学士として勤めていました。張廷玉の二人の息子も優秀でした。礼部尚書まで勤めた張若靄の他、張廷玉の次男・張若澄も進士に及第してから、南書房に入り、乾隆帝の近臣となり、のちに内閣学士にまで任命されました。

 張若靄は字が景採で、清王朝期の有名な文学者・書画家です。詩・書・画ともに長けていますが、中でも絵画の才能はとりわけ秀でていました。その中に、花卉画は明王朝期の写意画家・陳白陽の作風を受け継ぎ、山水画は明王朝期の山水画家・董其昌の作風を模倣していました。

 通政使司として勤めた時、張若靄は宮内に所蔵している法書、名画と工芸品を全て鑑定していました。所蔵物を一つ一つ鑑定し、その優劣を定め、説明文を作り款識(かんし)を書きました。『秘殿珠林』の二十四卷や、『石渠寶笈』などの編纂を参加する他、独自に『西清紀事』を編纂し、昔にあった故事を記し、文学にも大きく貢献しました。

 そのほか、張若靄は皇帝と宴遊に参加する時、毎回見た景色をその場で文章にし、その何千もの文章は何の修正もなく書き上げるほどであったと言われる文才でした。そして、張若靄は皇帝に画作を献上するたびに、陳腐な出来栄えではなく、大変優れた巧緻と才気だと皇帝に称賛頂き、御筆を執り御詩を題されていました。これほど多才な張若靄でしたが、惜しくも30代の若さで病死してしまいました。

清・張若靄、張若澄「秋山撫琴図」

 こちらの『秋山撫琴』は、張若靄・張若澄兄弟二人が合作した山水画です。奥ゆかしい華美さがありながらも明快さを持つ作品です。伝統的な山水画の題材「秋の山と紅色の樹木」に対し、張氏兄弟は初めて俯視と仰視の両方の視角を基盤にしてから、一つ一つの細部を足していました。「高山仰止(こうざんぎょうし)」の雰囲気を出すために、張氏兄弟は山水の精緻さと荘厳さを見事に結合し、画中の景色を遠くから眺めることができるけどなかなか手が届かない、という厳粛な雰囲気を醸し出しました。

 この作品から、画面上の面白みが損なわれないよう、張氏兄弟の凝らした様々な工夫は、見る人の情緒に訴えかけるほどに魅力が溢れています。色彩の対比や細部の組合せ、雲霧の中から飛び出てきている宮殿の一角や、山から流れてくる大きな滝、そして雲海の中で見え隠れする墨色の遠い山など、伝統的な細部の要素は皆、この作品を生き生きさせています。琴を撫でる文人たちを画面の中腰に座らせるのもまた、「画龍点睛(がりょうてんせい)」のような一演出になります。『秋山撫琴』は、清王朝期の宮廷山水画の中の随一の傑作と言えるでしょう。

 註:太廟とは、中国歴代王朝において皇室の祖先の霊を祭る場所のことで、宗廟とも呼ばれる。

(文・戴東尼/翻訳編集・常夏)