宜興市東岸にある周処像、川にて蛟と格闘している。(猫猫的日记本, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 中国文化の「周処除三害(周処は三つの害を排除する)」という故事は古くから伝えられ、多くの人に知られています。

 『晋書(しんじょ)』の記載によると、周処(しゅうしょ、236年~297年)の、字名は子隠、揚州呉興郡陽羡県(現在の江蘇省無錫市宜興市)出身です。周処の父・周魴(しゅうほう)は呉国鄱陽の太守を務めていたので、周処は、貴人の家に生まれたと言えます。しかし、父の周魴が早世しまったので、息子の周処は、不躾で物知らずになりました。そして少年時代の周処は、常人を超える力を持ちながら、競馬や狩猟を好み、身勝手で乱暴な行動ばかりしていたので、郷里の人々に恐れられ『災難』と見なされていました。

 ある時、周処は道端で嘆き悲しんでいる老人を見かけました。「今年は、大きな災害も無く収穫量も多かったのに、なぜ郷里の老人は、嘆いているのだろうか?」と、奇妙に思った周処は、その老人に尋ねてみました。

 すると、老人は「この村には三害があるから、喜ぶことなんてできないよ!」と答えました。

 周処は「三害とは何だ?」と尋ねました。

 「一つ目は、南山の中にいる白額虎、二つ目は、長橋の下にいる蛟龍、そして…」と、老人は急にしどろもどろになりました。

 周処は、三つ目の害が何かを問い続けました。

 やっと老人は「三つ目の害は、目の前にいるあんただよ」とため息まじりに答えました。

 これを聞いた周処は、ハッ!としました。

 今まで、自分が郷里の民を、どれ程困らせていたのかを、ようやく自覚しました。そしてすぐに周処は「そんなものが三害なら、俺がその三害を全て取り除いてみせる」と老人に言い放ちました。

 老人は「あんたが三害を取り除いてくれたら、きっと、村人みんなが大喜びするだろうよ!」と言いました。

 老人と別れた周処は、まず南山に入り白額虎を退治しました。次に長橋の下の水に飛び込み、蛟龍と戦いました。三日三晩戦った末、蛟龍と周処は、数十里も先まで流され、ともに姿を消してしまいました。

 周処が戻って来なかったので、村人たちは「周処と蛟竜が、共に水の中で死んだ」と思い、楽しく祝い始めました。一方、やっとの思いで蛟龍を退治した周処は、ようやく村に帰ってきました。しかし「周処が死んだ」と大喜びしている村人たちを目の当たりにした周処は、自分がどれだけ嫌われていたのかを、本当の意味で悟ったのでした。

 傷心極まりない周処は、自らを改めるための教えを請おうと思い、当時の名士である陸機・陸雲兄弟の元を訪ね、呉の国へ旅立ちました。

 陸機が留守だったため、陸雲に面会した周処は、自身の半生の経歴を述べた後「今から身を修めて、良い行いをしたいのですが、今まで無駄に時間を過ごし、既に年をとってしまいました。もう手遅れでしょうか?」と心の中の悩みを打ち明けました。

 すると陸雲は、「昔の人は『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』といい、貴重な美徳だと讃えました。まだ、あなたには、前途に見込みがあるし、自ら改心したいと願っています。必ず将来は、その名を馳せる日が訪れるでしょう!」と答えて、周処を励ましました。

 賢人に励まされた周処は、行いを改め猛勉強を始めました。やがて、しっかりとした克己心(こっきしん)を持つ志の高い人格者になり、文学の才能も開花させました。

 翌年には州に招かれ、呉の東観左丞を務めました。

 三国時代の終わりに、周処は西晋に仕え、この時代の名将・名臣となりました。しかし、正直な性格が仇となり、権力者を怒らせ、反乱軍を迎え討つ途中、故意に支援を打ち切られました。周処は、死に時だと覚悟を決めましたが、命令を受けた日から後退せず、朝から夕暮れまで、全軍を挙げて戦い続け、命懸けで忠義を尽くし亡くなりました。

 若い頃、「三害」と呼ばれ嫌われた周処は、己の非を悔い改めて、自らを修め、やがて一時代の名臣となりました。新平郡太守・広漢郡太守・彭城郡内史の重職を歴任し、いずれにおいても優れた業績を残し、数多くの賞賛を受けました。しかし、老いた母親のために、辞職して帰郷しようとしていましたが、忠義をを尽くし戦死しました。周処は後に「平西将軍」を追贈され「孝」の諡(おくりな)も授けられました。

 人は、過ちを犯しても、心から悔い改めることができれば、いつかは認められる日が訪れるのですね。

(翻訳・宴楽)