成都武侯祠の王平塑像(Morio, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 三国時代の後期、蜀国では優秀な人材が極端に不足していたため、戦では困難を極めていました。このような状況下、依然として不敗の名将と呼ばれた将軍がいました。蜀国の王平(おうへい)大将軍です。

  初期の王平

 王平(?-248)の字(あざな)は子均で、益州巴西郡宕渠県(現在の四川省達州市渠県)の出身です。生年は不明ですが、『三国志』の記載によると、王平は子供の頃は母親である何氏に育てられ、最初の姓は「何」でした。これにより王平を「何平」と呼ぶ歴史書もありますが、大人になってから王姓に戻したようです。

 史書の記載によれば、王平は読み書きができませんでした。もともとは巴郡の少数民族で、建安二十年(紀元215年)に張魯が曹操に降伏した時、王平も張魯と共に洛陽に行きました。曹操はおそらく、これらの人物の中から大物が輩出されるとは、みじんも期待していなかったったでしょうし、帰順さえしてもらえればそれでよしと考えた為、王平に校尉の職務を与えたとのでしょう。

 同年、王平は曹操に従い、漢中の戦に参戦しましたが、劉備に降伏したのです。しかしながら劉備でさえ、この降伏して来た読み書きのできない者が、将来「不敗の将軍」として蜀漢の柱になろうとは思いも寄らなかったでしょう。

 街亭の戦に全身で退く

 建興六年(紀元228年)、諸葛亮は第一次北伐を始めます。当時、諸葛亮は軍に加わった馬謖(ばしょく)を派遣して戦略的に重要な街亭を守らせました。馬謖と馬謖の副将軍である王平は街亭まで進軍しました。ほぼ同時に、魏の将軍である張郃(ちょうこう)も魏軍を東方から率いてやって来ました。馬謖は地形を調べた後、水路を捨てて山上に陣を構えることに決めました。それについて王平は何度も反対しましたが、馬謖は王平の意見を聞き入れようとしませんでした。王平は千人の軍隊を割り当てて、山の麓辺りに駐留させてくれるよう馬謖にお願いすることしかできませんでした。

 軍隊を率いて街亭まで到着した張郃は、馬謖が山上で陣取るのを見て、すぐに兵隊を率いて馬謖の部隊を包囲し始め、山上の水源を遮断しました。蜀軍は断水したことでパニックを起こし、張郃は馬謖の部隊を攻撃し潰走させました。一方、王平だけが一千の軍隊を率いて兵営を守っていました。馬謖が敗退したのを見ると、王平は兵隊たちに必死に太鼓を叩いて守りを堅くして動かないようにと命令しました。太鼓の音を聞いた張郃は伏兵がいるのではないかと警戒し、それ以上接近しようとしなくなりました。王平は正しかったのです。冷静な王平は機会に乗じ、各陣営の散り散りになった残留兵を収容し、将兵をまとめ、落ち着きはらって撤退しました。

 その後、諸葛亮は「泣いて馬謖を斬る」ことになりました。同時に、馬謖と一緒に誤った軍事作戦を推し進めてきた、馬謖配下の将校である張休と李盛も処刑にし、将校の黄襲などの将軍の軍事権を剥奪しました。ひたむきに街亭で善戦した王平だけが能力を認められ、馬謖に代わり参軍の地位を与えられたばかりでなく、討寇将軍に昇格となり、亭侯に封じられました。

「泣いて馬謖を斬る」の場面(パブリック・ドメイン)

 蜀軍の士気を取り戻す

 建興九年(231年)、蜀軍は第四次北伐を行います。諸葛亮は祁山を取り囲み、王平に山の南を守備するよう命じました。当時、王平が任されたのは「無当監」と呼ばれる官職で、「無当飛軍」と呼ばれる蜀軍の精鋭別働隊を率いていました。

 魏の司馬懿は、諸葛亮と力量において互角でありました。打って出た司馬懿は、何万人もの軍隊を率いて王平の軍を攻撃するよう張郃に命じました。ところが王平は守りを固め動こうとせず、堅守して張郃軍を撃退しました。

 建興十二年(234年)、蜀軍は第五次北伐を行い、司馬懿の持久戦に苦しめられていました。同年八月、諸葛亮は陣中で病死しました。幕僚の楊儀は諸葛亮の遺言に従い、漢中まで全軍撤退を命じるほかありませんでした。しかし、かねて楊儀と不仲だった魏延は撤退命令に従わず、楊儀討伐の兵を挙げて攻めに来ました。楊儀の先鋒である王平は、魏延配下の兵士に向かって一喝し逃げ去らせたため、難なく魏延を討ち取ることに成功したのです。名将の不祥事による蜀軍の大乱を収めた王平の功績です。

 漢中を守る「興勢の役」

 まもなく、王平は安漢将軍に昇進し、車騎将軍である呉懿の副将として、漢中に駐屯しました。その後も昇進し続け、やがて漢中の軍事・行政を一任されました。

 延煕七年(244年)の春、魏国の大将軍である曹爽は、都督雍涼二州諸軍事の夏侯玄たちを伴い、十万余りの大軍の指揮を執って、駱口(現在の陝西省周至県)から漢中に入りました。当時、漢中の守軍は3万も満たしておらず、魏軍の襲来に諸将は血の気が引きました。「漢中を捨て後退し、漢城・楽城の二城の関所を固守したらどうか。涪城からの蜀国の援軍が到着すれば、魏軍に奪われた漢中を取り戻すことができるだろうから」との声もありました。しかし、王平は「それではだめだ。漢中と涪城は千里余りも離れている。もし魏軍が漢中を得たならば、後に我々にとっては災いとなるであろう。今は劉敏と杜祺を興勢山に立て篭もらせ、私は後方の備えにあたるべきだ。もし魏軍が黄金城に攻め入ろうとするならば、私は自ら兵を率いて救援に赴くつもりである。その時には涪城の救援軍がちょうど到着するであろう。これこそ最良の策だ」と言いました。

 将軍たちは王平の意見に懐疑的な態度でした。護衛軍の劉敏だけが王平の見解と一致していました。そこで、劉敏は自分の部下を率いて急いで興勢を占拠しに行き、多くの旗やのぼりを盛んに掲げ、百里(約392キロメートル)の距離までまたがっていました。曹操の兵が興勢に到着した時には、劉敏の部隊に邪魔されて前進することができませんでした。しかも、涪県からの蜀軍と、成都から急いで駆けつけた大将軍である費禕の率いる救援部隊も間に合ったため、曹爽は軍を撤退させるしかありませんでした。この興勢での活躍により、王平の名声はさらに高まりました。

 蜀国の後期、著名だった将軍らは相次いで亡くなっていきましたが、その当時は東に鄧芝、南に馬忠、北に王平ありと言われたように、彼らは蜀国の安全を守っていました。

(翻訳・夜香木)