「墨守成規」は「墨守」と「成規」の2つの言葉で構成されており、墨子と諸葛亮の知恵が含まれている。図は諸葛亮の北伐を示す(パブリック・ドメイン)

 「墨守成規(ぼくしゅせいき)」という四字熟語はよく使われていますね。現代において、「墨守成規」とは、保守的な考え方を持ち、古いルールに固執し、変化を拒否することの比喩として使われています。しかし、「墨守成規」の語源にさかのぼると、この熟語は「墨守」と「成規」の2つの言葉で構成されており、それぞれの語源に墨子と諸葛亮の知恵が含まれているのです。今回は、その語源を探りたいと思います。

「墨守」は「墨翟の守護」

 墨子の名前は「翟」で、中国の戦国時代に有名な思想家および戦略家でした。墨子は「兼愛非攻」(全ての人を愛して他国を攻めず)を提唱し、敵の攻撃から城を守る方法を研究し、あらゆる場所で伝え広めました。

 『墨子』の記載によると、楚国が自国より小さな宋国を攻撃することを計画し、当時の名匠・公輸盤①は、楚国に宋国を攻撃するための先端武器・雲梯を作り献上しました。墨子はそれを聞いて、急いで公輸盤と面会し、楚王の前で模擬戦闘を行いました。

 模擬戦闘において、墨子は、自分の帯を城として、木片と竹簡を街を守る武器としました。公輸盤は雲梯を使い城を攻める9つの方法を提示すると、墨子はその攻撃を9回連続で防御できました。公輸盤の攻城の武具は使い切ったのですが、墨子の守城術はまだふんだんにありました。

 こうして墨子は、城を守る独創的な戦略で、雲梯の攻撃を見事に打ち負かし、楚王を説得することができ、宋国への攻撃を阻止することができました。これは後世に伝わる「墨翟の守護」です。

 「成規」は「諸葛亮の成した規」

 三国時代、蜀漢の君主である劉備は、諸葛亮(孔明)に国政を委ね、後主である劉禅を助けるように託しました。諸葛亮は約束を果たし、北伐の陣中で亡くなりました。

 君主の劉備を失い、丞相兼軍師の諸葛亮も失った蜀漢は危機に瀕しました。幸いなことに、大臣の蒋琬と費禕は、諸葛亮が残した制度に従い国を治めたため、国の情勢を安定させることができ、国内外の平和と繁栄を維持することができました。

 陳寿は『三国志』で、「蔣琬は方整にして威厳があり、費禕は寛済で博愛である。二人は諸葛亮の成した規を承(う)け、因循して革(あらた)めず、そのため辺境には虞(おそれ)が無く、邦家は和一した②」と、蒋琬と費禕の二人を評価しました。二人は旧制を守り変えなかったことにより、蜀漢は劉備と諸葛亮を失っても、10年以上国家の安定を維持することができました。

 その後、「墨守」と「成規」が統合され、「墨守成規」という四字熟語が誕生しました。

 ほとんどの現代人は、「墨守成規」は、古い規則に固執し、変更を拒否することを意味し、保守的な行動をけなした表現だと考えています。しかし、上記のように、古代人の知恵と古い規則は、軽々しく超越されるものではありません。その古い規則や伝統をうまく守れると、不敗の地に立つこともできます。

 時の流れとともに、言葉の意味も驚くほど変化してきました。熟語の起源を遡って、真の意味を習得するのは、新しい楽しみになれるかもしれませんね。

 註:
 ①中国春秋戦国時代の魯の工匠。公輸般、公輸班とも。魯国出身のため、魯般・魯班としても知られている。
 ②中国語原文:蔣琬方整有威重,費禕寬濟而博愛,咸承諸葛之成規,因循而不革,是以邊境無虞,邦家和一。(『三国志・蜀書十四・姜維傳』より)

(文・容乃加/翻訳・宴楽)