張仲景と『傷寒論』(看中国合成写真、Hanabishi, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 「葛根湯」は、日本で最も親しまれている漢方薬の一つだと言われています。風邪の他に、頭痛や肩こり、蕁麻疹等にも広く使われています。それは、1800年前の漢時代の『傷寒論』という古典医書に記載された、葛根、麻黄、桂皮、生姜、甘草、芍薬、大棗の7種の生薬からなる処方でできています。

 一、「傷寒論」について

 「葛根湯」の出典となる医学書『傷寒論』は現存する最古の中国医学書であり、後漢(25年―220年)の張仲景(※1)によって著されたといわれています。

 「傷寒」とは悪性の伝染性疾患のことで、今で言う疫病のことです。後漢の建安年間(196年―220年)に、傷寒が流行し、張仲景の200人いた親族のうち3分の2が10年の間に死亡し、その7割が傷寒によるものだったことが「傷寒論」の序文に示されています。それに心を痛めた張仲景は官を退き医学の研鑽に勉めることにしたそうです。

 張仲景は多くの傷寒患者を診察し、患者個々の症状に応じた独創的な治療を試みました。彼は古代から伝わる医学の知識と自らの経験を元に『傷寒雑病論』(後に『傷寒論』と『金匱要略方論』に分割された)を著しました。『傷寒論』は漢方医学の最も重要な文献となり、中国でも日本でも漢方学習の基本書とされ、現代まで読み継がれています。

 『傷寒論』は、1800年の歳月が経った今でも、その真価が失われることなく、済生の道に活用されています。『傷寒論』を出典として、現在も使用される漢方薬には、葛根湯の他に、当帰芍薬散や五苓散、芍薬甘草湯、桂枝茯苓丸、小柴胡湯等があります。

 二、伝えられた様々な異本

 『傷寒論』は元々『傷寒雑病論』という名称で、16巻あると伝えられていますが、残念ながら、張仲景が亡くなった後、原版は程なくして失われました。晋の太医令王叔和(※2)は『傷寒雑病論』の遺稿の一部を入手し、それを整理、加筆修正、編集しそれを『傷寒論』と命名しました。その後、北宋(960年―1127年)になると、朝廷から医書を校正するようにとの命令があったため、最終的に『傷寒論』と『金匱要略』の二冊の本に分け、再編され、現代に伝えられています。

清王朝時期出版された『傷寒論』(パブリック・ドメイン)

 『傷寒論』は歴史上の異なる時代において、それらを収集、保存、復元する努力がなされ、数多くの異本が伝えられてきました。

 『傷寒論』は日本にも伝わっており、日本には中国にはない2種類の異本があります。それが次の2冊です。

 1、『康治本傷寒論』

 『康治本傷寒論』(康治本)」の序文に「此書比叡山所蔵」「叡山の宋が入唐して謄写し帰る」と記されています。『康治本』は、宋版等と比較すると、条文数は少ないものの、主な薬方は示されており、無駄のないものとなっています。末尾に「唐貞元乙酉歳寫之」と記されており、唐貞元乙酉歳(805)は最澄と空海が共に入唐していた年であるため、最澄によって日本にもたらされたものではないかと推測されています。

 2、『康平本傷寒論』

 『康平本傷寒論』は、医者の大塚敬節が1936年に古書屋で発見した傷寒論の異本です。「康平三年(西暦1060年)」と記されていたため、『康平本傷寒論』(康平本)と呼ばれています。『康平本』は、朝廷の医官である丹波雅波によって書き写され、丹波家に秘蔵されていたとされています。

 『康平本傷寒論』を発見した大塚敬節は、それを中国人医師の葉橘泉に贈りました。1947年、『康平本傷寒論』は上海の千傾堂によって発刊され、1988年湖南科技出版社によって再出版されました。『康平本傷寒論」は中国でも広く伝えられ、その研究者も数多くいるそうです。

 『康治本』と『康平本』については真偽を疑う声はありますが、いずれも貴重な研究資料として利用され、評価されています。

 (※1)張仲景(150-219)は中国後漢末期の官僚、医師。中国医学における医方の祖、医聖とされる人物。
 (※2)王叔和 3世紀ごろの中国(後漢末~西晋初)の医者、生没年については180―270年、210―285年などの説があり、確実なことは不明。

(文・一心)