(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 ヨーロッパへ出張に行った際、現地にある有名な教会を訪れた。この教会だけは必ず行くようにと多くの友人に勧められたからだ。あいにく、私が行くと必ずこの教会は閉まっていた。

 違う場所に行く度に、必ず地元の教会に行く。神聖さと静けさを感じに行くのだ。他の多くの教会には行ったので、いつも閉まっているこの教会の中を観たいという気持ちがどんどん強くなっていった。そしてこの教会に足を運ぶこと6度目にして、ようやく中に入ることができた。

 喜んでドアを開けた瞬間に、目の前の壮観さと厳粛さに驚かされた。このバロック式の教会にある彫刻や絵は、実に豪華で神聖なものであった。たった一枚の扉が、世俗と神聖を切り離していた。ドアの向こう側は、俗世から離れた神聖な国に来たかのようだった。

 静かな教会に、司祭だけがろうそくをともしており、私が立てた音を聞き、こちらを見て微笑んだ。私はゆっくりと歩き、すべての絵、すべての神様の彫刻を見ながら、それぞれの伝説的な物語を連想した。雑念が湧くことなく、目の前の聖だけが心に響いていた。

 教会を一周して全てを見た後、出ることにした。ドアまで行き、もう一度教会の風景を見るために振り返った。この安らかさと美しさとの別れを、名残惜しく感じた。

 教会を出ると、外で写真を撮っている観光客や、餌を探しているハト、そして犬を追いかけて笑っている子供たちがいた。それらすべてのことも素晴らしかったのだが、あのドアの向こうの世界とは違った。

(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 私たちはこの俗世に浸っており、幸せを感じたり、そして不可避的に悩みや苦しみも感じてしまう。恐らく私たちは、この教会のような別世界の神聖さと静けさを感じる時、この世で感じる悲しみなどは自然に消え去るのではないだろうか。あの教会のドアを開けて別世界に入ったと感じた時のように、時には自分の心の扉を開き、自分自身の最も深い所の声に耳を傾け、真の自分を見つけるのも良いだろう。

(文・青松 / 翻訳・謝如初)