不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳画 パブリック・ドメイン)

 古代中国において、渤海には、蓬莱、方丈、瀛州という仙人が住む三つの山があり、そこには、不死不老の仙薬があると伝えられていました。

 『史記』によると、約2200年前、徐福は始皇帝の命を受け、仙薬を求めて3回も船出をしました。それは、2度の失敗を経て、前209年、徐福は3度目の船出を試みました。この出来事は、徐福は「3,000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの、三神山には到らず、平原広沢を得て王となり、秦には戻らなかった」と、『史記』に記されています。

 伝説によると、徐福一行は、韓国の済州島に立寄り、その後、日本に辿り着き、佐賀の有明海海岸から日本に上陸したと推測されています。

 徐福にまつわる伝説は、日本各地に伝承されています。ここでは、徐福が探し求めた「不老不死の霊草」に焦点を当て、特に佐賀の寒葵、和歌山の天台烏薬、富士山の苔桃を取り上げたいと思います。

 1. 寒葵(カンアオイ)

 定説はないものの、佐賀地域周辺に九州最大の平野があり、それが史記に記された「平原広沢」と一致しており、そして佐賀県にも徐福伝説が数多く残っていることから、佐賀県は徐福が上陸した最初の場所として有力視されています。

 佐賀県の金立山は徐福伝説を残す山として知られています。

 徐福は地元の案内人と一緒に、金立山中で薬草を探しに明け暮れているうちに、幸いにして仙人に出会い、不老不死薬を授かったと伝えられています。

寒葵(カンアオイ)(Qwert1234, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 その薬草は金立山に生息する寒葵とされていて、佐賀では、フロフキの名で呼ばれており、中国の古語の「不老不死」が濁ったものから来たと言われています。

 2. 天台烏薬(テンダイウヤク)

 徐福一行はその後、船に乗り、現在の和歌山県の新宮市辺りに辿り付きました。伝説によると、徐福はここで蓬莱山を探し、仙薬を探し、「天台烏薬」という不死不老の薬を見つけたとされています。

 現在、新宮海岸には、徐福上陸地の記念碑、七塚の碑(徐福を支えた7人の重臣の墓)、そして、徐福の宮が祀られている阿須賀神社等もあり、徐福との関わりの深さが色濃く残っています。

 徐福が求めたといわれる不老長寿の霊薬、「天台烏薬」

天台烏薬(テンダイウヤク)(I, KENPEI, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 3. 苔桃(コケモモ)

 不死不老薬を求め、さらに徐福一行が船を進ませていくと、途中で聳える大変美しい山と出会い、これこそ蓬莱山だと大変驚き、足を止め、山に登り、不老不死の薬を探し始めました。
今でも、地元では徐福が富士山で不老不死薬の苔桃を採集したことや、富士山の名は「不死山」が由来であることなどが、伝えられています。

 その後、中国から始皇帝が亡くなったとの知らせがあったため、徐福らは、中国への帰国を諦め、富士山の麓に住むことを決め、現地の人々に農耕や医薬、鉄を作る技術等を伝えたそうです。

 現在の富士吉田市には、徐福雨乞地蔵祠や徐福祠・徐福大明神(徐福の墓)などがあり、徐福ゆかりの地として有名です。

苔桃(コケモモ)(パブリック・ドメイン)

 徐福伝説の「不老不死の妙薬」は他にも多くあります。例えば、青森県の栃葉人参、東京都八丈島の明日葉、京都府伊根町の黒茎のヨモギ、山口県祝島の梨葛、福岡県筑紫野市のエヒメアヤメ等が挙げられます。これらの薬草は昔から現在に至るまで人々の生活に大いに役に立っています。

(文・一心)