南宋・梁楷 『李白吟行図』の一部(画像出典:東京国立博物館)

 中国の盛唐時代では、華麗で多種多様な文化が栄える中、詩の流行は絶頂でした。李白(りはく、701年 – 762年)はその盛唐時代の代表的な詩人です。字は太白(たいはく)、号は青蓮居士(せいれんこじ)、後世に「詩仙」と称えられ、同時代の「詩聖」と呼ばれる杜甫(とほ)と並び、中国詩歌史上の二大詩人「李杜」と併称されます。『新唐書』の記載によると、興聖皇帝・西涼の武昭王李暠の九世孫である李白は、気さくで大らかな性格で、人が好きで、お酒や詩に娯楽好きでした。後世に残された『李太白文集』の中の詩はほとんど酔っぱらっていた時に作成したそうです。

 東京国立博物館に所蔵されている『李白吟行図』(りはくぎんこうず)は、南宋の画家・梁楷(りょうかい、生没年不詳)が描いた名作です。李白を表現する絵が数多くありますが、この絵は少ない筆数で見事に李白を表現した一作です。絵の中に、李白は横向きに立ち、四角の額の上に髪が力強くすっくとし、ひげは少し前に曲がり、顎は少々上に向け、両手は後ろに組んでいます。至って簡単な描き方ですが、李白の率直な生き生きとした個性を描き出しました。李白の非凡な才能と洒脱な気質に対して、人によってイメージと理解が異なりますし、そのすべてを一枚の絵で表現するのが難しいでしょう。簡略な筆遣いで、外見より内面をにじみ出すよう描いたからこそ、李白の気質と精神を最大限に表現することができました。

南宋・梁楷 『李白吟行図』(画像出典:東京国立博物館)

 『李白吟行図』には、黒と白がはっきりしており、墨の濃淡軽重が調和しています。梁楷は極めて簡単な二本の墨線を使って、姿と精神を一つに融合させました。絵の中の李白が意気揚々としていて、洒脱自在の気質、生き生きとした英気、そして不屈な精神が表されています。簡略な墨で描かれた自然と垂れ下がる袖と、緻密な墨で描かれた整然とした衿が呼応しているように見えます。そんな李白の毅然とした立ち姿から、静かで清らかな気質が感じられます。

 南宋期に活躍した画家・梁楷。東平県(現在の山東省泰安市に位置する県)出身で、銭塘(現在の浙江省杭州市)に住んでいました。仏道人物と花鳥風景の水墨画に長けていました。南宋の寧宗の嘉泰年間(1201 – 1204)に、梁楷は宮廷画家の最高位である画院待詔に任命されました。ところが、画院のしきたりのしがらみが気に入らない梁楷は、画院の最高栄誉の象徴として賜与された金帯をそこら辺の木に掛けて、宮廷を去り、自由な暮らしに戻りました。狂人を意味する「梁風子」とも呼ばれました。

 梁楷は初期の作品で、繊細に描く人物絵画で名を馳せ、「画院の人は、彼の見事な筆致にいつも感服する」とも言われました。徐々に、折芦描(まるで芦を折れたような形状を表現する描法)と呼ばれる粗放な画風に転換しました。粗放な描線で真に迫る人物を表現し、創造性に富む人物画をよく描きました。

 『李白行吟図』は、唐五代から南宋末期までの間に勃興した禅宗人物画の画風の代表作です。禅宗の普及に伴って発展してきた禅宗人物画は、絵より「禅」を重んじ、画をもって禅を寓し、画によって仏法を悟ることを目的とします。そのため、人物の外見の描写を重んじず、意の伝達に重点を置きます。この画風は、五代末から北宋初期の石恪(せきかく)が代表的で、南宋末期に梁楷により引き継がれ、元王朝で因陀羅(いんだら)、顔輝(がんき)などの画家により伝承されました。

 清らかな雰囲気に満ちている『李白吟行図』。画家の梁楷は李白と同じく、富貴栄華を捨て、我が道を歩むことに妥協しない生き方をしました。そういう訳で官員としての業績はありませんでした。しかしその生き様から伺える群像は人々の心の中に生き続けています。その生きた証は、彼らが残した作品と共に、人類の財産として歴史に永遠に残るでしょう。

(文・戴東尼/翻訳・心静)