李綱(1083~1140)(パブリック・ドメイン)

 北宋時代から南宋時代への移行期は波乱に満ちた亂世だったが、朝廷には武の「中興四将(岳飛・張俊・韓世忠・劉光世)」と文の「南宋四名臣(李綱、趙鼎、李光、胡銓)」がいた。今回紹介する南宋の宰相・李綱(りこう、1083年~1140年)は金国との対抗を主張し多大な功績を残した人物だ。もし皇帝が彼を重用しその主張を取り入れたならば、恐ろしい「靖康の変」は起こり得なかっただろう。

 金国が最初に軍を南下させて宋を攻撃したとき、大軍は宋の首都開封に迫っていた。宋の朝廷は恐ろしい雰囲気に包まれたが、儀礼や音楽をつかさどる李綱は宋と金の状況を合理的に分析し、国を守る戦略を大胆に提案した。李綱は皇太子に皇帝の位を禪讓することを提案し、これが後の宋の欽宗である。

 廷臣である李綱は、皇位継承に影響を及ぼそうとしたが、それは朝廷の政治実権を牛耳るつもりではなかった。彼は友人の吳敏に言った。「皇太子を開封の首長にさせたのは、首都を守るためではないか?金軍は宋王朝の土地を蹂躙している。皇太子が即位しなければ、全国の英雄を集める十分な権威がありません。皇太子の美徳は天下に知られていて、皇位を継ぐのに十分である。あなたは言官(皇帝に進言する官職)として、どうして皇帝に提案しないのか」

 翌日、徽宗は議論するために李綱を呼び寄せた。真心を示すために、李綱は自分の血で上奏文を書いた。「太子監国(皇太子が皇帝に代わり限定的な統治権を行使すること)の制度は平時における礼法です。しかし現在外敵が侵略してきましたので、この危機的状況においては普段の礼法に則る余裕はありません。太子監国では皇太子が十分な権力を握れないため、天下の英雄に呼びかけることもできません。したがって、太子を即位させ、将兵の忠誠心を高めることによってこそ、天下を失わずにすむのです」

 この血のついた上奏文により、徽宗は禅譲の提案を受け入れた。欽宗皇帝の即位後、李綱は憂国憂民の気持ちから、皇帝に善政を敷くよう繰り返し説いた。 そしてほかの大臣が金王朝に土地を割譲して和議を申し出ようと提案した時は、李綱は「先祖が残してくれた国土は命がけで守らなければならない。たとえ一寸一尺といえども他人に割譲することはできない」と拒絶した。

 翌年、金軍の将軍・完顔宗翰(わんやんそうかん)が兵を率いて黄河を渡ると、徽宗皇帝は南に逃走した。開封に残った欽宗皇帝は同じく金軍を恐れ、宥和策を唱える大臣らに説き伏せられ逃走しようとした。しかし李綱は「現在は兵馬を整え、民心を安定させ、救援軍が来るのを待つべきだ」と主張した。彼は泣き伏して、金軍と戦うよう欽宗に懇願した。そして李綱は皇帝に対し「私が兵を率いて戦いに参加することを許していただければ、死力を尽くして城をお守りします」と誓った。

 そこで李綱は首都・開封の防衛の責任者となり、軍人と平民を率いて城郭の防衛を固め、兵器を製造した。そして城壁の周りに数万の兵士を配置した、日夜訓練に勤しんだ。金軍が開封を包囲し侵攻した時、開封はびくともしなかった。李綱は自ら戦場に赴き、勇士を城の外に送り直接戦わせた。この戦いで金軍は将校を数十人失い、数千の兵を失った。

 宋軍は勝利したが,両国の協議は進行中であった。金王朝の貪欲な要求に対し、李綱は断固として和平交渉を拒否した。彼は兵士を率いて金軍と戦い、強力な弩(いしゆみ)「神臂弓」を用いた敵を撃退した。金軍が撤収すると、李綱はその撤退を監視し、襲撃に備えさせた。

 李綱は文官であったが、頑強不屈にして意志が強く、敵に打ち勝つことができた。そして宋王朝の尊厳を守り、その忠義と勇気は人々を感服させた。しかし不幸にして李綱は宥和策を唱える大臣らに排斥され、国家存亡の危機を前にして左遷された。宋王朝の都・開封も最後の頼みの綱失い、再び南下した金王朝の軍に包囲された。欽宗は頑強な李綱を思い出し、都に戻り敵を撃退してほしかったが、李綱が長沙から駆け付けた時にはすでに手遅れだった。金王朝の軍はすでに開封を攻め落とし、徽宗・欽宗や皇族官僚以下数千人と無数の財宝を手に北方へと帰っていった。これが宋王朝の最大の悲劇「靖康の変」であり、北宋の国運の終焉でもある。

 『宋史』には次のような仮説がある。すなわち、もし李綱が妨害を受けずに金王朝と対抗することができたならば、徽宗・欽宗が拉致されることは起こらず、宋王朝が長江以南に追いやられることもなかっただろう、というものだ。君子を重用し、小人を遠ざけることこそ、国家を治める道理だ。

 李綱は生涯を通して社稷と民の安寧を心に留め、左遷されても自分の意志を変えることはなかった。また、宋と金の交渉のたびに、金王朝の大臣は李綱、趙鼎などの忠臣の現状を気にかけていたという。李綱の忠義は敵対国の人物をも敬服させるほどだったのだ。

(文・柳笛 / 翻訳・柳生和樹)