西遊記(北京・頤和園の回廊絵画)(shizhao, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 玄奘(げんじょう、602年―664年3月7日)は俗称を陳褘(チンキ)と言い、洛陽(河南省)出身で唐代の著名な三蔵法師(※注1)でした。後世の俗称は唐僧でした。お経を求めて貞観元年(627年)天竺に向かい、貞観19年(645年)に長安に戻ってきました。この19年間の行程は約2.5万キロメートルとも言われています。彼の西方への旅は大砂漠、雪山、氷河、激流、山賊、悪人といったものに遭い、自ら体験した、まさに想像を絶する艱難辛苦であり、また神秘さに満ち溢れたものでもありました。

 次に記録したものは道中玄奘が自ら目にした神秘的な経験の一部を抜粋したものです。

1.大砂漠を横断する

 莫賀延磧(ばくがえんせき)の大砂漠は八百里を超え、日中は暴風が砂を巻き上げ、夜は鬼火がちらつくため、玄奘は道中、佛号を唱えながら前へと進もうとしました。彼はかつて五日間にわたり、水を口にすることができず、極度の疲労と喉の渇きで、これ以上持ちこたえることができなくなったことがありました。地面に倒れ込み、息も絶え絶え、死が歩み寄っていました。しかし、それにも拘らず彼は心の中でひたすら佛号を黙考していたのです。

 彼のその様な誠意が菩薩に通じたのかも知れません。五日目の晩、一陣の涼風が吹いたことで、玄奘は気持ちを奮い立たせることができ、生気が蘇ってきました。また彼の傍に寄り添っていた老いた赤馬もぱっと起き上がったのでした。

 しかし5、6キロメートル程進んだところで、その赤馬は突然言うことを聞かなくなり、どうしたものか別の方向へ行こうとするのです。玄奘が引っ張って戻そうとしてもなお言うことを聞こうとせず、仕方なく老いた赤馬に引っ張られて行き着いた所は、なんと緑地(オアシス)の前でした。そこには澄み切った泉水と青々としたつややかな草が伸びていたのです。玄奘はついに恐ろしい莫賀延磧の大砂漠を通り抜けたのでした。

中国甘粛省北西部のゴビ砂漠(Laika ac from UK, CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons)

2.神の泉水

 阿耆尼(アグニ)国には有名な阿父師泉があります。阿父師泉は往来する行商人の安全の為に命の危険を取り除いていました。往来する人の数によって泉の大きさが変わるのです。人がいない時、泉水の量は溢れない状態を保っているのです。玄奘は弟子を連れて敬虔な気持ちで、誠意をもって泉水に向かって礼拝をしてからその近くで一夜を過ごしました。

玄奘三蔵像(東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重文)(パブリック・ドメイン)

3.秘蔵の宝を掘る

 迦畢試(かぴし)国には沙落迦寺という寺があります。玄奘が僧侶から聞いたところによれば、この寺は漢族の皇帝がお金を出して建立したものでした。以前ある漢族の王子が迦卒試で人質になっていました。(後に玄奘がわかったことは、彼らが言っている漢族の天子や王子は西方のある国の人のことでした。容貌や服装から漢族に見えたのです)

 うわさによれば、その人質になっていた王子が多くの財宝を大神像の右足の下に埋蔵し、さらにその付近に「伽藍が朽ちて壊れたら修理せよ」と言う字が彫ってありました。

 しかしこれまで長い間これらの財宝を掘り起こすことに成功した人はいませんでした。毎回掘り出そうとするたび、突然地震が発生したり、神像の頭上のオウムが羽を大きく広げてけたたましく叫び声をあげるなどの奇異な現象が起こるため、恐れをなして退いていたのです。寺の僧侶は玄奘とその王子が同じ国の出身であるならば、どうか試してもらえないかと考えました。

 玄奘は神像の前で香を焚き、祈りを捧げると、このように言いました。「この地面の下にある財宝は元々王子が寺の修理のためにご用意されたものでしょう。現在この寺はすでに新たに修理が必要となっております。どうか私に財宝を掘り起こす指揮を執らせていただくことを許可していただきとうございます。一切は殿下の意思に従って行いますゆえ、殿下の神霊にお許し願います」と祈りを捧げた後、玄奘は人に命じて掘り起こさせました。

 ついに地下七、八尺まで何事もなく掘り起こしてみると、大きな銅器が一つ出てきて、中には数百キログラムの黄金と数十個の宝石が詰め込まれていました。寺の者達は非常に喜び、しきりに玄奘に感謝したのでした。 

(つづく)

※注1:三蔵法師とは、仏教における経蔵・律蔵・論蔵の3種類の典籍に精通している法師のこと。

(文・古風/翻訳・夜香木)

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