隋の文帝である楊堅(よう けん、541年7月21日ー604年8月13日)(パブリック・ドメイン)

 中国の伝統文化の中に、河神、山神、雷神、土地神などの様々な神に対する信仰がありました。神々が世の中の万事万物を管理していると思われ、神々に関する物語も民間で代々伝わってきました。それだけではなく、多くの縁のある人は夢の中、あるいは特定な状況の中で、神々の存在を身を持って体験をしました。

 中国の疫病神に関する記録は隋から始まりました。『三教源流捜神大全』の記述によると、隋の文帝開皇(※1)6月に、5人の力士が地面から10~15mの高さの空中に現れました。彼らは5色の袍を身に付け、1人の手には杓子と壺を、1人は皮袋と剣を、1人は扇子を、1人は金槌を、1人は火壺とそれぞれ持っていました。隋文帝は急いで太史公(※2 )の張居仁に「何の神か? 何を管理する神か?」と聞きました。張居仁は「彼らは五方瘟神(ごほうおんしん)です。天上では鬼神、地上では瘟神(おんしん)、つまり疫病神と呼ばれています。春の疫病神は張元伯で、夏の疫病神は劉元達で、秋の疫病神は趙公明、冬の疫病神は鐘仁貴、総監督の疫病神は史文業です。今、神々は疫病を流行らせてきました、もう免れる事はできないでしょう」と言いました。

 この年、隋朝では、予想した通り、疫病が大流行し、多くの人が疫に感染して死亡しました。その後、隋の文帝は自分の過ちを修正し、祠堂(しどう:先祖の霊を祀る所)を作り、5人の疫病神を祭ることにしました。唐代になると、5人の疫病神を祭る隋の風習を踏襲し、唐代と宋代では、人々は5人の疫病神が天帝の命令を受け、人間の世界で疫病を流行らせる使者だと考えました。

 また、宋の浙江縉雲(しんうん)出身で、知枢密院事(ちすうみついんじ)(※3)に務めた管師仁は学校で勉強した時、疫病神に出会ったことも記されました。疫病神は菅師仁に「元日から疫病をまき散らすが、お前の家族は大丈夫だ」と告げ、そして「お前の祖先三代は、皆善を行い、徳を積み、そして、悪行を止めに入り、善行を誉め讃えた。だから、お前の家族は感染しないだろう」とその理由も教えてくれたそうです。

 要するに、疫病神というのは中国人にとって、なじみのないものではありません。中国の神話小説『封神演義』の中にも、姜子牙が元始天尊の勅命(ちょくめい:天皇の命令)を受け、呂岳を疫病神に封じ、彼に瘟部の6人の神を指揮させたと書かれました。神を信じる人は「世の中で流行っている疫病の本質は、神が人間の善悪によって按排した因果応報である」と考えているのです。

 疫病神が人間の善悪によって疫病を流行らせている、と知っているからこそ「疫病には目がある」という言い方があるのです。人類の道徳がある程度まで墜落した時、神は災難を下し、人々に警告します。歴史書の中の疫病について「心に善念を持ち、高尚な道徳を有する人は被害を受けず、良心をなくし品行の悪い人が罰される」と書き記されていました。

(※1)隋の文帝楊堅の治世に行われた年号で、581 ~ 600年
(※2)暦や占卜に関連して記録も担当したことから史官としての役目を持つ
(※3)唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。

(文・肖輝)

(明慧ネットより転載)