一、異なる信仰の間に生きる奈良の鹿

 奈良公園は東大寺、興福寺、春日大社という歴史的な社寺に囲まれ、周辺には多くの野生の鹿が暮らしている魅力的な観光スポットです。

 これらの社寺はそれぞれ異なる信仰対象を持っていますが、奈良時代から明治時代の神仏分離に至るまで、神仏習合の長い歴史の中で深く結びついていました。当時からこの地に生息していた奈良の鹿たちは、春日大社の神の使いとして尊ばれ、1000年以上にわたり、春日大社や興福寺によって手厚く保護されてきました。

19世紀末の奈良公園(Adolfo Farsari, Public domain, via Wikimedia Commons)

 しかし、明治時代を迎えると奈良の鹿の運命が一変します。1868年の「神仏分離令」によって、神仏習合の秩序が激しく崩壊し、これまで鹿を手厚く保護してきた興福寺も廃寺の窮地に立たされたのです。保護の盾を失った奈良の鹿は、乱獲や駆除によって一時はわずか38頭にまで激減し、絶滅の危機に瀕したのです。

 奈良の鹿の運命は、まさに神仏習合の歴史、明治政府が発した「神仏分離令」、それに伴って巻き起こった廃仏毀釈という仏教破壊運動の渦中に、深く組み込まれたと言えます。

二、神仏習合時代に手厚く保護された「奈良の鹿」

 奈良の鹿は、春日大社、興福寺、東大寺の3社寺と切っても切れない深い結びつきを持って生きてきました。その歴史は、すべて春日大社から始まります。

1) 春日大社の神鹿として

 春日大社では、鹿を「神様の使い」として神聖視しています。それは、768年に春日大社の社殿ができた際、第一の神様である「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」が、茨城県の鹿島神宮から白い鹿に乗って奈良の地にやってきたという伝説に由来します。                   

春日鹿曼荼羅図(かすがしかまんだらず)(部分)(Unknown Kamakura-period artist, Public domain, via Wikimedia Commons)

 この神話から、奈良の鹿は1100年以上にわたり、誰も傷つけてはならない存在として手厚く保護されてきました。

2) 興福寺から厳しく保護

  興福寺は藤原氏の「氏寺」であり、古代より藤原氏の「氏神」である春日大社と深く結びついていました。歴史上、興福寺と春日大社は「一体の存在」(神仏習合)だったのです。

 そのため、興福寺は春日大社の鹿を傷つける者に対して「神鹿を殺した者は死刑」という非常に厳しいルールを運用し、鹿を徹底的に守り抜きました。            

3) 東大寺の寛容の共生

 一方の東大寺は仏教寺院ですが、隣接する春日大社とは古くから良好な関係を持っていました。春日山から下りてきた春日大社の神鹿たちは、日常的に東大寺の境内にも出入りし、穏やかに受け入れられていたのです。

東大寺の南大門(Wikimedia Commons, パブリック・ドメイン)

 神仏習合の長い歴史の中において、奈良の鹿は、春日大社の神話によって神聖化され、興福寺の権力によって厳重に守られ、そして東大寺の寛容によって優しく扱われてきました。そのおかげで、神仏分離までの1100年もの間、野生の姿のままで生き残ることができたと言えます。

三、「神仏分離令」による絶滅の危機

 1868年、明治政府によって「神仏分離令」が発せられました。神仏習合の秩序が崩壊すると、そのしわ寄せは残酷な形で鹿たちへと及びます。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、それまで鹿を厳重に保護してきた興福寺の影響力は完全に失墜しました。同時に、江戸時代まで続いていた「鹿を殺した者は死刑」という厳格な法も廃止されたのです。

 新しく赴任した奈良県令の四条隆平は、鹿を「農作物を荒らす有害獣」とみなし、1871年に銃殺の許可を出します。さらに、野生の鹿を捕らえて馬車を引かせるなどの過酷な扱いも行われました。

 当時、日本には文明開化とともに「牛肉を食べる文化(牛鍋)」が急速に広まっていました。奈良では、守り手を失った鹿たちが格好のターゲットとなり、日常的に密猟されてはスキヤキなどの肉食に供され、その数は激減していきました。

 そして1873年、農作物の被害を抑えるため、生き残っていた約700頭の鹿が柵の中へ強制収容されます。しかし、野生の鹿たちは狭い環境に馴染めず、餌不足や野犬の侵入、さらには病気の流行によってわずか38頭にまで激減し、絶滅寸前へと追い込まれたのです。

 奈良の鹿の運命は、まさしく日本の宗教史そのものであると言っても過言ではありません。しかし、これほど長く続いた神仏習合の文化が、なぜ神仏分離へと向かい、どうして「廃仏毀釈」という仏教破壊運動にまで発展してしまったのでしょうか。

四、神仏習合から廃仏毀釈への変遷

 日本の歴史では、神道(神様)と仏教(仏様)を明確に区別せず、一体のものとして信仰する「神仏習合」の時代が長く続きました。

1) 奈良時代から平安時代初期まで

 仏教は、約2500年前に古代インドの仏陀(釈迦)が開いた教えで、6世紀半ばに日本に伝来しました。その究極の目的は、衆生を苦しみの連続である「六道輪廻」から解脱させ、迷いの世界である「三界」から離脱させることです。

 仏教が日本へ伝来し、人々の間に深く浸透するにつれ、日本の神々を巡る、「神身離脱説(しんしんりだつせつ)」という考え方が生まれました。それは、「日本の従来の神々は、人間から深く信仰されているものの、仏教の宇宙観からすれば、未だ六道輪廻から抜け出せない『三界内の衆生』であり、神の身の苦しみから離脱したい、仏法によって救われたいと願っている」という考えです。神々はこのような意志を巫女の宣託(せんたく)や僧侶の夢告(むこく)といった形で世に伝えたとされています。

 この思想に基づき、神社の境内に「神宮寺」が建てられ、神前で読経が行われるようになりました。

 当時の神々は、仏教を篤く信仰し、積極的に帰依する姿勢を示しました。例えば、聖武天皇が大仏を建立する際、大分県の宇佐八幡宮の神が「大仏建立を必ず成し遂げさせる」と托宣し、平城京へ移って大仏を守護したのです。これには仏法や国家を守るという護法善神(ごほうぜんしん)の思想が深く息づいていました。

2) 平安時代中期以降から鎌倉時代まで

 平安時代中期以降になると、仏と日本の神々の関係性に変化が生じます。この頃、「仏(本地)が、日本の人々を救うために仮の神の姿(垂迹)となって現れた」とする「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」が確立しました。例えば、天照大神の正体は「大日如来」であり、八幡神の正体は阿弥陀如来である、などと解釈されるようになったのです。

 鎌倉時代中期になると、その力関係がさらに反転します。「神こそが根本(本地)であり、仏は仮の姿(垂迹)に過ぎない」という、立場を逆転させた思想(反本地垂迹説)が登場したのです。反本地垂迹説では、インドや中国の人々を救うために、天照大神が姿を変えて現れたのが「大日如来」や「釈迦如来」であると解釈されました。これによって、日本の神々は外来の仏の従属物ではなく、世界を包み込むオリジナルの存在へと格上げされました。

3) 江戸時代から明治時代へ

 室町・江戸時代を経て、徳川幕府のもとで仏教は「寺請制度(てらうけせいど)」によって国家と強く結びつきました。それにより寺院は絶対的な権力と富を持つようになり、僧侶たちも仏教本来の修行や教えから遠ざかっていきました。この「堕落した寺院」への不満と、鎌倉時代中期以後から続く「神道優位」の思想が、水面下で結びつき高まっていったのです。

 そして明治時代を迎えると、新政府は天皇を中心とした近代国家を作るため、とうとう「神仏分離令」を発しました。これにより、それまで1000年以上続いていた神仏習合の歴史は、国家の政策によって終わりを告げます。

 この法令をきっかけに、地方の役人や民衆の間で、「仏教を排斥せよ」という過激な運動(廃仏毀釈)が日本全国で巻き起こりました。

 かつて強大な権力を誇った奈良の興福寺も、その被害から逃れることはできませんでした。五重塔がわずか数円(現在の価値で数万円程度)で売りに出され、あやうく焼き払われそうになるなど、甚大な文化財の被害が出たのです。

五、その後の歴史と現代(エピローグ)

奈良公園の鹿(Humanoid one, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 廃仏毀釈による混乱の中で、絶滅の危機に瀕した奈良の鹿たちを守ろうとする動きが徐々に始まっていきます。1878年、当時の堺県は、鹿の殺傷禁止区域を設定し、1891年には、民間保護組織「春日神鹿保護会(現・奈良の鹿愛護会)」が結成され、本格的な保護活動が開始されました。

 地元の保護活動により、戦前には約900頭にまで回復した奈良の鹿ですが、第二次世界大戦中の深刻な食糧難と密猟により、一時79頭にまで激減するという二度目の試練を迎えました。

 戦後になり、官民一体の保護体制によって鹿たちは奇跡的な復活を遂げました。そして1957年には、「奈良のシカ」として国の天然記念物に指定されました。現在、かつての春日大社や興福寺に代わって、奈良県や「奈良の鹿愛護会」が連携し、野生動物としての鹿の保護、管理を担っています。

(文/一心)