「23秒。人口100万人の都市が、地図から姿を消すには十分な時間だった。そして、さらに背筋が凍るのは、この災害には事前に警告できた可能性があったということだ」
 2026年7月28日、日本の熊本県でマグニチュード7.1の強い地震が発生しました。そして今から50年前の同じ日、1976年7月28日、中国の河北省唐山市でマグニチュード7.8の大地震が発生しました。その犠牲者数と被害の凄惨さは、世界中に衝撃を与えました。半世紀が過ぎた今も、唐山大地震をめぐる二つの大きな疑問は、解消されないままです。

1976年7月28日午前3時42分

 静かな夜に包まれた工業都市、中国・河北省唐山市。通りに人影はなく、工場の煙突が暗闇の中に静かにそびえています。100万人を超える住民は、いつものように眠っていました。その瞬間、大地が突然引き裂かれました。わずか23秒で、地表にあった建造物の9割以上が倒壊しました。震源の深さはわずか12キロで、場所は唐山市の真下でした。最も危険とされる「直下型地震」です。
 激しい揺れは唐山市だけにとどまらず、被災面積は21万平方キロに達しました。揺れを感じた範囲はさらに広く、200万平方キロに及びました。これは中国の国土面積の5分の1を超える広さです。14の省・直轄市・自治区で、この大災害の揺れが観測されました。
 夜明けを迎える前に、人口100万人の都市は、がれきの中で息絶えようとしていました。警報も、放送も、数秒前に知らせる地震警報すらありませんでした。人々はベッドから起き上がる時間さえなかったのです。

3年遅れで発表された数字

 地震発生後、中国政府が発表した死者数は24万2000人、重傷者は16万人余りでした。また、7200を超える家庭で、家族全員が命を落としたとされています。しかし、この数字が中国国家地震局によって正式に対外発表されたのは、地震から3年以上が過ぎた1979年11月でした。3年という時間があれば、真実を幾重にも覆い隠すことができます。一方、民間で伝えられてきた死者数は、政府の発表とは大きく異なります。その数は60万人、あるいはそれ以上ともいわれています。
 かつて米イェール大学でがんの研究に携わっていた、元河南医科大学の張育明(ちょう・いくめい)医師は、唐山大地震の実際の規模はマグニチュード9.0に達し、死者数は75万人に上った可能性があると指摘しています。これは公式発表の約3倍の数字です。50年が過ぎた今も、唐山大地震で実際に何人が命を落としたのか、正確な答えを示せる人はいません。
 自然災害による犠牲者数は、本来、最も基本的な公共情報であるはずです。しかし中国では、政治に左右される未解決の謎となっています。
 さらに、死者数の過多よりはるかに驚くべきことがあります。それは、地震が発生する2年前、すでにこの大地震を予測した人物がいたことです。

封じ込められた警告

 時間を、地震発生の2年前に戻します。1974年5月、北京市の地震観測チームに所属していた科学者、耿慶国(こう・けいこく)さんは、中国科学院に報告書を提出しました。その中で、「遼寧省南部では、今後1、2年以内にマグニチュード7以上の大地震が発生する可能性がある」と予測していました。
 当時、国家地震局を所管していた中国科学院の幹部、周栄鑫(しゅう・えいきん)さんは、この警告を国務院に報告しました。さらに、国務院の日常業務を取り仕切っていた李先念(り・せんねん)副首相にも、直接説明しています。周さんは、北京市とその周辺地域が連携する地震対策協力チームの設置も提案しました。地域をまたいだ地震予測と警報の仕組みを構築しようとしたのです。
 しかし、1975年11月、激しい政治運動が始まりました。毛沢東は、鄧小平を失脚させるための政治運動を発動しました。周さんは「鄧小平の側近」の一人と見なされ、粛清の対象となりました。周さんが中心となって設置した地震対策協力チームも政治的な圧力を受け、活動は事実上停止しました。耿慶国さんが気象データを基にまとめた短期地震予測も、途中で差し止められ、政府の意思決定を担う上層部には届きませんでした。
 それでも、現場の研究者たちは諦めませんでした。1975年12月、中国地質部の地震観測チームは、唐山市を「危険な三角地帯」に指定しました。1976年初めから5月にかけて、唐山市の地震対策室は、周辺地域でマグニチュード5から7の強い地震が発生する可能性があると、繰り返し予測しました。6月に入ると、中国国家地震局に寄せられた地震予測は15件に急増しました。通常の3倍から5倍です。7月6日と14日には、震源地に近い開灤馬家溝炭鉱(かいらん・ばかこうたんこう)の地震観測所で働いていた馬希融(ば・きゆう)さんと、唐山市第二中学校の地震観測拠点の責任者が、相次いで緊急警報を出しました。予想される地震の規模は、マグニチュード8に達する可能性があるとまで警告していました。
 7月中旬には、北京市の地震観測チームが、チーム発足以来、最も顕著な「七つの異常」を捉えました。地下水の異常、温泉の水温の急上昇、巣穴から群れをなして逃げ出すネズミ。さまざまな異変が、まもなく大災害が起きることを告げていました。

運命を分けた15時間

 7月17日と18日、全国地震観測・防災経験交流会が唐山市で開かれました。中国国家地震局分析予報室の北京・天津グループ責任者、汪成民(おう・せいみん)さんは、会議で発言することを求めました。しかし、会議を主催していた副局長の査志遠(さ・しえん)は、その要求を拒否しました。汪さんは仕方なく、会議の参加者に個別に非公式に口頭で警告しました。
 「7月22日から8月5日までの間に、唐山市と灤県(らんけん)周辺で、マグニチュード5から6の地震が発生する可能性がある」
 7月23日、地震発生5日前。唐山市楽亭県(らくていけん)にある紅衛中学校の観測拠点は、これから発生する地震が最大でマグニチュード7.7に達する可能性があると予測しました。
 7月27日午前、地震発生前15時間。汪成民さんは、ようやく査志遠副局長に直接報告する機会を得ました。しかし、返ってきた答えは、わずか一言でした。
 「来週の会議で検討する」
 その後、大地震へのカウントダウンを止める者は、もはやいませんでした。同日午後6時、震源地に最も近い開灤馬家溝炭鉱の地震観測所は、地震発生の9時間前に、最後の警報を発しました。「マグニチュード7.3を超える地震が、いつ発生してもおかしくない」
 しかし当時、中国共産党の最高指導部が関心を向けていたのは、地震警報ではありませんでした。鄧小平を批判するための権力闘争でした。一般の人々の生死を気に留める者はいませんでした。

50年後の問い

 中国共産党中央規律検査委員会の元官僚、王友群(おう・ゆうぐん)さんは、次のように指摘しています。中国の伝統文化には、「人の命は何よりも重い」という考えがあります。しかし、中国共産党にとって、数十万、数百万、さらには数千万の命が失われても、それは都合に合わせて増減され、隠すことさえできる数字にすぎないというのです。王友群さんは、中国共産党による70年余りの統治の中で、唐山大地震のような悲劇が繰り返されてきたと指摘しています。そして、ほぼすべての大災害の背後に、人災の影があると述べています。
 中国問題専門家の李林一(り・りんいつ)さんも、現在の中国共産党当局の本質は何も変わっていないと指摘しています。政権の安定を何よりも優先し、権力闘争に明け暮れ、災害が起きるたびに情報を統制し、真実を封じ込めようとします。官僚たちは責任を追及されることを恐れ、自らの立場を守るため、消極的な対応を選びます。
 唐山大地震から50年となるこの日、日本の熊本県では、マグニチュード7.1の強い地震が発生しました。同じように、予測することが難しい自然の脅威に直面しながら、片方は情報を公開し、速やかに警報を出します。もう片方は、沈黙と先送り、そして隠蔽を選びます。
 二つのまったく異なる対応が、災害の後に残るものを決めます。それは、復興への希望なのか。それとも、永遠に癒えることのない傷なのか。
 半世紀が過ぎた今も、唐山市の傷は、世界に問い続けています。災害が襲った時、人の命よりも重要なものとは、いったい何なのでしょうか。

(翻訳・藍彧)