2026年6月4日は、1989年の六四天安門事件(以下:六・四事件)から37周年を迎える日である。六・四事件の生存者であり、人権弁護士の李双徳氏は自身の体験について語った。広場では頭上を銃弾が飛び交い、流れ弾が太ももを貫通し、北京市民が命がけで身を隠させてくれたこと、そしてその後、中国共産党政権と対峙し続けてきた人生についてである。
1989年、李双徳は成都放送テレビ大学(現在の成都開放大学)の学生だった。5月25日、彼は数人の大学生と共に列車で北京へ向かい、抗議活動に参加した。列車内は北京へ向かう熱血な若者たちで溢れていた。到着後、李双徳は天安門広場に身を置いた。5月31日以降、情勢は緊迫し、戒厳部隊が北京へ進軍しているという情報が絶え間なく入ってきた。
6月3日深夜、軍隊が天安門広場を包囲した。広場には学生たちがおり、戦車や装甲車も配置されていた。北京市民は自発的に街頭に繰り出し、軍の進軍を阻止しようとした。一方、広場にいる学生たちの間では、持ちこたえるか撤退するかについて意見が分かれていた。劉暁波ら組織者は軍隊と交渉し、学生たちを解放するよう要求したところ、軍隊は学生たちに撤退経路を設けることに同意した。
学生の組織者は拡声器を通じて、各学校に整列して平和的に撤退するよう指示した。その瞬間、一発の銃弾が拡声器を直撃した。李双徳は当時、拡声器の下に立っていた。弾丸は頭上をかすめて飛び、拡声器を粉々に砕いた。

撤退後、地方からの学生たちは駅へと向かい、帰路につこうとした。北京の学生数名が列車内で地方の学生の責任者を探し出し、彼らを北京大学へ誘い、今後の「空校運動」について協議するよう呼びかけた。つまり、学生を学校から引き離して工場や農村へ送り込み、労働者のストライキや農民の抗議活動を組織するという計画である。李双徳は、大通りで軍と衝突することを避けるため、この20~30人の集団と共に路地裏を迂回した。しかし、彼らは予期せず市街地で激しい衝突が起きている現場に飛び込んでしまった。李双徳は当時について、「至る所で銃声が響き、走り回る軍人がいた。北京市民は自家用車で軍人の進路を阻んでいた。そして私は流弾に当たり、負傷した」と語っている。
流弾が太ももに命中し、李双徳は地面に倒れた。すると、見知らぬ北京市民が彼を背負って病院へ運んでくれた。医師の診察の結果、弾丸は太ももを貫通していたが、軍隊が各病院で銃傷を負った人々を捜索していたため、入院することはできなかった。簡単な手当てを受けた後、李双徳はこの北京市民に背負われて自宅に隠れ、傷を治すことになった。彼はこの北京の普通市民の家に9日間身を隠していたが、6月13日にその家を出た。その頃、北京全域で捜索が始まり、多くの学生が逮捕されていたからだ。当時、北京駅には私服警官が至る所に潜んでおり、極めて危険な状況だった。李双徳は恩人の会社の社用車に乗って石家荘に到着し、そこから紆余曲折を経て成都に戻った。
学校に戻ると、学校側は李双徳に退学を勧めた。学校側は、除籍処分となれば大学入試を受けることができなくなるが、自主退学であれば再受験が可能だと説明した。李双徳は自主退学を選択し、その理由として「体調不良のため学業を継続できない」と記した。
成都の各大学から退学や除籍処分を受けた学生たちは、工場に配属され労働者として働かされた。李双徳は工場で2年間働いた後、再び大学入試を受け、四川政法管理幹部学院に合格した。卒業後は20年以上にわたる人権弁護士としてのキャリアを歩み始めた。弁護士として活動する間、李双徳は特に政治的に敏感な案件、すなわち法輪功信者の事件、政治的異見者の事件、家庭教会の事件、および各種の権利擁護案件を専門に担当した。依頼人はいずれも当局による重点的な弾圧の対象であったため、彼の弁護士としての道は危険に満ちていた。
李双徳氏は、六・四事件から30年以上が経過したが、一度も真の意味での自由を得たことがないと語った。六・四事件当日、彼は、他の事件体験者たちと集まって追悼を行うことを防ぐために派出所職員の管理下に置かれるか、あるいは農村へ「隔離」されることを余儀なくされた。同氏によれば、六・四事件の体験者であれば誰でも、事件当日に警察官の付き添いのもとで管理下に置かれるという。このような管理は、彼が2023年に中国を離れるまで毎年続き、一度も途切れることはなかった。
李双徳氏は、中国共産党が六・四事件を極度に恐れている根本的な原因は、この弾圧の本質にあると考えている。同氏は、「1989年の六・四事件は平和的なデモ行進であったが、その結果、正規軍が動員されて暴力的な弾圧が行われた」と述べている。弾圧による死者数については、いまだに公式な数字が公表されておらず、真相は依然として当局が触れることを恐れるタブーとなっている。
現在の中国の若者の中で、1989年6月4日に中国で何が起きたかを知っている人はほとんどいない。当局は情報の遮断、インターネットの規制、公的な追悼活動の禁止といった手段を通じて、この歴史を体系的に抹消してきた。香港はかつて、華人が毎年合法的に六・四事件を追悼する重要な場所であり、ビクトリア公園でのキャンドルナイトには数万人が集まっていた。しかし、2020年の「反送中運動」と香港国家安全法の施行以降、香港での六・四事件追悼活動も全面的に禁止された。
将来について、李双徳氏は、単に中国共産党に六・四事件の「名誉回復」を求めることに反対していると明確に表明した。同氏は、天安門事件の決定責任は、当時その決定に関与した政治局全体が集団として負うべきだと考えている。鄧小平氏は中央軍事委員会主席として戒厳令に署名し、李鵬氏らは戒厳令の決定案の作成と推進に関与した。責任者たちは、将来新たな政治体制の下で清算され、責任を問われるべきである。
李双徳氏は、六・四事件以前は多くの学生と同様、中国共産党の改革に幻想を抱き、開明的な指導者に期待を寄せていたと率直に語った。六・四事件の銃声は、そのすべての幻想を打ち砕いた。「平和的な請願を武力で弾圧したことで、中国共産党の本質はすでに露呈している。それは選挙によって選ばれた合法的な政権ではなく、銃と暴力によって政権を掌握し、暴力によってその運営を維持しているのだ。」
あれから37年の歳月が流れた。天安門広場で銃弾が飛び交う音を耳にしたあの大学生は、既に海外へ亡命した。彼の体と心には今もあの時太ももを貫いた銃弾の傷跡が残っている。彼は加害者が責任を問われる日が来ることを切に願っている。
(翻訳・文遠)
