根拠のないデマが、真面目な農家が数ヶ月かけて育てた努力の結晶を奪い去りました。

 4月6日、中国江蘇省南通市のネギ畑(約6ヘクタール)について「持ち主がネギをタダで持って行っていいと言っている」というデマがネット上で拡散されました。その結果、短時間で数百人が畑に押し寄せ、我先にとネギを掘り起こしたのです。群衆は周辺道路を塞ぐほどで、農家の劉さんは畑の半分近いネギが奪われるのを黙って見ているしかありませんでした。この収穫でローン返済や子供の学費を賄う予定だった劉さんは、今や 約400万円(20万元)を超える深刻な損失に直面しています。

 今回の事件は決して特異なケースではありません。近年、中国の農村部や郊外では「デマ」から始まった「拾う」ことを口実に事実上の略奪行為に及ぶ事件がしばしば起きています。 例えば2020年8月、江蘇省塩城市の高速道路で豚肉を積んだトラックが横転し、落下した約7トンの豚肉がわずか30分で近隣住民に奪い去られ、持ち主は約700万円(約30万元)の損失を被りました。また、2023年10月には河南省周口市で漢方薬の原料を収穫中の農家が機械故障で作業を中断した隙に、「収穫後だから拾いに来た」と数百人が畑になだれ込み、薬草を根こそぎ奪い去る事件も起きています。農園主が泣きながら懇願しても、群衆は耳を貸しませんでした。

 こうした信じがたい出来事を前に、現場に押し寄せた人々は最初から悪意ある犯罪者だったのかという疑問が浮かびます。彼らの大半は、普段はごく普通に暮らす温和な近隣住民です。それが特定の状況下では、瞬く間に盲目的な略奪者へと変貌します。背後にあるのは、小さな乱れを放置すると、やがて大きな犯罪に繋がるという「割れ窓理論」と群集心理です。ルールを破ったデマが拡散され、最初の誰かが他人の畑のネギを持ち去っても咎められなかったことから、遂にモラルのタガが外れてしまいました。さらに同調現象が拍車をかけます。「他の人が取っているのだから、自分も取らないと損だ」という心理が一人ひとりの道徳観を希薄にするのです。大衆によって起きる喧騒の中では責任の所在が分散され、個人の羞恥心は跡形もなく消え去ります。

 さらに事態を深刻にしているのは、群衆の心にある「大勢でやれば罪に問われない」という錯覚です。これがまさに、警察の取り締まりを行き詰まらせ、被害者の権利や保護が保障されない根本原因でもあります。今回の事件で劉さんは法的責任を追及したいと語っていますが、誰を相手にすべきか途方に暮れています。数百人規模の現場では監視カメラの死角も多く、証拠収集は極めて困難です。警察の人員にも限界があり、膨大な群衆を前に拡声器で解散を促すのが精一杯で、一人一人を立件して罪に問うのは現実的に難しいのが実情です。

 結果として、違反行為により、被害に遭った側は、一度の被害で全財産を失い、多額の努力の結晶が水の泡になります。しかし便乗した群衆は、警察が駆けつけても手にしたカゴを置き、少量のネギや薬草を返して口頭で注意を受ける程度で済んでしまいます。更に、再生回数稼ぎを目論むデマの拡散者は匿名性に隠れ、現場の群衆も人混みに紛れて責任を逃れます。最終的に、その重い代償はすべて、真面目に畑を耕し実直に働く人々の肩にのしかかるのです。

 この背景には、「立場の弱い者同士の足の引っ張り合い」という社会の闇が見え隠れします。袋を抱えて畑を走り回る人々の多くは、生活のために日々やり繰りしながら生きる一般の庶民です。しかし、目の前の利益を前にすると、同じように汗を流す農家への助け合い精神はなくなり、、むしろ他人の弱みに付け込む残酷な現実が表れます。真面目な者が要領のいい者に虐げられ、分をわきまえる者が群衆の標的となるのです。彼らはタダで利益を得たと自己満足に浸る一方で、その行いが遅かれ早かれ自分に返ってくることには気づいていません。

 ルールが軽視される環境では、安全な場所にいられる保証はありません。今日他人の畑を荒らした人が、明日予期せぬ事故や生活の危機に直面した時、差し伸べられるのは救いの手ではなく、再び群がる別の群衆かもしれないのです。互いに傷つけ合うことが常態化すれば、将来的には誰もが標的になってしまいます。「真面目に働くより、厚かましく奪う方がマシだなんて、世の中がおかしいのではないか。」ネット上のこうした怒りの声は、被害者への同情にとどまらず、社会の最低限のモラルが踏みにじられることへの強い危機感の表れです。

 大勢なら罪に問われないという考えが暗黙の了解となり、「拾うこと」と「略奪」の境界線が地域の馴れ合いで曖昧にされる時、本当に傷つくのは真面目に生きる普通の人々です。多くの人がこの事件の結末に注目するのは、単なる賠償問題だからではありません。汗水流して働いた成果が正当に尊重され、理不尽な狂乱によって奪われてはならないという切実な願いが込められているからです。正直に生きる人々の努力が報われる、そんな当たり前の社会であってほしいと願うばかりです。

(翻訳・吉原木子)