最近、北京市・天津市・河北省を含む、京津冀地域が記録的な豪雨に見舞われ、河北省承徳市興隆県にある六道河鎮では、特に深刻な被害が発生しました。7月30日時点で、当局は死者8人、行方不明者18人と発表しています。しかし、複数の住民の証言によれば、実際にはそれをはるかに上回る死者が出ているとみられています。複数の村が鉄砲水に襲われ、多くの住民が命を落としたといいます。
災害が発生したのは7月28日の未明です。楊家台村や朱家溝村など少なくとも7つの村が、土石流や鉄砲水の直撃を受け、道路や通信が完全に遮断され、一時は外部との連絡がまったく取れない状態となりました。響水湖村の張さん(仮名)は、「うちには三棟の建物がありましたが、ほんの数分で二棟が崩れました。ペットの猫や犬もあっという間に押し潰されてしまいました。母と私は裏手の窓から山の洞窟に逃げ、4時間ほど身を潜めていました」と語りました。
張さんによると、洪水の前には警報も避難指示もなく、通信塔もすでに倒壊していたため、村全体が不意を突かれたといいます。「この村は山裾の川沿いにあり、水が来たときは本当に一瞬でした。紙のようにもろく家が流され、ある一家は妻が血だらけで見つかり、夫は片足だけ、息子さんは行方不明のままです」と言葉を詰まらせました。彼女の話では、近隣の北坎子や南坎子といった村々も、壊滅的な打撃を受けており、「死者数は100人を超えるのでは」との見方を示しています。
同じく周家荘村に住む陳さん(仮名)も、実家の楊家台村で両親を亡くしました。「朝5時ごろまでは連絡が取れていました。しかし、その後は停電と通信遮断で一切つながらなくなりました。甥が山を越えて村に戻り、倒壊した家の中から、祖父母の遺体を自分で掘り出したんです」と話しました。遺体はビニールシートで包まれ、石の上に安置されたまま、棺もないため簡易埋葬するしかなかったといいます。
彼女の住む周家荘村でも被害は大きかったものの、事前に避難の連絡があり、脳卒中で寝たきりの夫と高齢の義父を連れて、何とか山へ逃げることができました。「午前3時に避難して、午後1時過ぎに、ようやく救助が来ました」と振り返ります。
このような大災害にもかかわらず、中国中央テレビ(CCTV)などの国営メディアは、住民の被害よりも「互いに助け合うこと」に焦点を当てています。報道では「住民が互いに助け合っている」ことばかりが強調され、死者数や負傷者の情報、現場の悲惨な状況には一切触れられていません。
こうした情報の不足に加え、洪水被害の根本原因として、「事前通知のないダム放流」が住民たちの間で、強く指摘されています。中国水利部の発表によれば、北京・天津・河北の三地域では、合計107基の中・大型ダムが、同時に調整放流を実施し、その規模は過去最大級でした。北京市や天津市の安全を守るために、周辺農村への放流が優先され、結果的に多くの村が水没し、住民は命や生活のすべてを失いました。
承徳市高新区にある石門子村では、李艶さん(仮名)が「ビニールハウスも養豚場も全部流されました。豚もほとんど死にました。事前に避難の指示など一切なかったんです」と声を震わせます。「他の地域には政府関係者が来ていたのに、うちは水が来てから初めて誰かが現れました。それも何日も経ってから。誰も様子を見に来ない。こんな政府に何の意味があるのか」と怒りを露わにしました。
灤平県の荒地村でも同様の状況が起きていました。村民の杜波さん(仮名)は、7月26日の朝、大雨の中で、家族6人と避難した様子を語ります。「水が目の前に来るまで避難指示は一切なし。幸運にも隣人が工事関係者で、ショベルカーで助けてくれました」と語り、その後、家族は山へ避難。日中は村に戻って片付けをし、夜は山で寝泊まりしたそうです。「村からテントを受け取りました。今もそれで暮らしています。家も車もお店もすべて失い、被害額は100万元を超えました」と語りました。
交通や通信の手段が途絶えた多くの村では、住民が完全に取り残され、「陸の孤島」と化しています。興隆県上石洞郷の山神廟村では、災害発生から4日目の7月30日、村民の趙勇さん(仮名)が山を越えて村に戻りました。「道はすべて崩れて車は通れず、村は戦場のような有様でした」と語り、「この周辺だけでも15〜16の村が川沿いに点在しているのに、すべて家が流され、誰も助けに来ていない」と続けました。
彼は、すぐ隣の北京市密雲区では毎日のようにヘリが食料を空輸しているのに、自分たちの村には一度も支援が届いていないと話しました。「うちの村と密雲区はたった2キロしか離れていません。それでも、一度も物資は届きませんでした。」
市長ホットラインや村委員会に何度も連絡を取ったものの、返ってくるのは「救援活動中」「復旧作業中」といった決まり次第文句だけだったといいます。村の幹部からは、「村の復旧には1年以上かかるだろう」とも言われました。
「もう本当に、言葉にできないほど悲惨です」——そう繰り返す趙さんの言葉が、取り残された多くの人々の現実を物語っていました。
(翻訳・吉原木子)
