霊峰富士山(TANAKA Juuyoh (田中十洋), CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

 日本の神道は自然への畏敬と祖先崇拝を中心に、長い歴史の中で自然発生的に形成されてきた信仰体系です。しかし、神道には明確な教義や経典、創立者が存在しないため、「宗教」ではないと見なされることが多いと言われています。

 なぜ経典や教義、創立者がなければ、「宗教」と見なされないのでしょうか?その理由は何なのでしょうか?

 今回はその謎について掘り下げていきたいと思います。

一、伝統宗教の創立者は地上に下りた神?

 東洋も西洋も同じように、古代から人々は神々の存在を信じてきました。神に対する理解は国や民族によって異なりますが、一般的に、神は人間をはるかに超えた知性と能力を持つ存在として認識されています。

 釈迦牟尼、イエス、老子は、それぞれ仏教、キリスト教、道教を創立しました。彼らは神の言葉を語り、神の奇跡を見せ、人々から尊敬と信仰を集め、人間の姿をもって地上に現れた偉大な神だと思われています。

1) 超人の能力と智慧を持つ

 仏教の開祖である釈迦は苦行を続けた後、菩提樹の下で悟りを開き、宇宙の真理が見え、宇宙の各空間の真相も見え、大いに神通力を顕したと伝えられています。

 釈迦は、一粒の砂の中に三千大千世界を見ることができ、そして、一粒の砂はあたかも一つの宇宙のように、その中に生命があり物質もあると説きました。

 釈迦が特別な智慧と能力を持てるのは、神様だからだと考えられています。

 イエスも神であると信じられています。イエスは、病人を癒したり、水をワインに変えたり、死者を蘇らせたりするなど、数々の奇跡を行いました。イエスは人間の罪を償うために十字架にかけられましたが、3日後に復活しました。この復活は、イエスが神の子であること、人間を罪から救う力があることを証明する最も強力な根拠だと思われます。

 道教の祖と言われる老子は、道教の最高神である太上老君(たいじょうろうくん)の原型とされています。

 老子は、宇宙の成り立ちや万物を生み出す根本的な原理である「道」を、人間が理解できるように説き、人間が目指すべき理想の生き方、すなわち自然との調和、無為自然などの原理を示唆しました。老子は古代中国のみならず、現代にも大きな影響を与えている人物です。

2)「道」や「法」を説く

 釈迦、イエス、老子は、それぞれ宗教を創立し、自らの教えを説きました。釈迦は「法」、イエスは「福音」、老子は「道」を説いたとされています。

 宗教の創立者らは真理と真実を広め、善と悪を区別する基準を示し、人々の心を善に導き、人間が持つべき世界観や人生観の基礎を築き上げました。

 そして、生命には次元の差があり、道徳水準の向上によって生命が昇華することができ、生命は宇宙のさらなる高い次元に入ることができることも教えてくれて、人類に修煉の文化を残してくれたのです。

3) 主宰する天国を持っている

 広大な宇宙には、数多くの天国が存在していると思われています。例えば、阿弥陀如来は極楽浄土を、薬師如来は瑠璃世界を、釈迦如来は娑婆世界を、そして西洋の神も自らの天国を持っているとされています。

 仏教では、人々は仏法に従って心を修め、道徳水準を高め、宇宙の最下層である「三界」から離脱し、人生の輪廻の苦しみから解放され、生命の故郷である天国に帰ることを教えています。

 キリスト教では、神を信じ、神の教えに従って生きれば、やがて天国に帰ることができると信じられています。天国は、人間の真の命が神と共に過ごし、永遠の喜びと祝福を受けるができる場所だとされています。

 道教の場合、人間が善行を積めば、神々の住む天界に入ることができると言われています。天界とは、地上から遥か上にあり、さまざまな神々や仙人たちが住んでいる、楽園のような場所であるとされています。

 伝統宗教の創立者はいずれも、自分の主宰している世界へと人を済度していると思われます。 

清・丁観鵬「極楽世界荘厳図」(パブリック・ドメイン)

二、経典と教義の意味

 キリスト教には聖書、仏教には「大蔵経」などの経典、道教には「道徳経」などの書物が存在します。これらの書物は、それぞれの宗教の教えや倫理をまとめた重要な典籍です。

 釈迦が説いた教えをまとめたものは「経典」と呼ばれます。釈迦の言葉を直接記録したものや、弟子たちがまとめたものなど、多くの種類があり、その数は7000巻余りにも及ぶと言われています。

 仏教経典には、天国と地獄、輪廻転生、善悪の報い、因果の道理と言った基本的な教えが記されており、仏教徒の修行や実践を導く指針となっています。

 聖書はキリスト教やユダヤ教の聖典とされる書物です。旧約聖書と新約聖書から構成され、神と人間との関係、救済、律法などが記録されています。聖書は、神の言葉として、信仰者の人生を導く規範とされています。

 道教の経典は、広範な内容と多様な種類があり、主に「道蔵」に集められています。「道蔵」は「道徳経」を始め、多くの文献から成り立っており、道教の神々や信仰、思想などを記しています。

 「天地は滅びるが、私の言葉は滅びない」とイエスは言い、中国にも「天は変わらず、道は変わらない」という言葉があります。これらの言葉は、自然の法則や道徳的な規範は、時代や場所の変化に関わらず普遍的なものであることを意味しています。

 変化の激しい世界の中でも、経典は信じる人々が実践するための羅針盤になるのです。

終わりに

 古来、日本人は、自然物や自然現象に対して尊敬や畏怖の念をいだき、神そのものは目には見えず、一定の形を持っていませんが、人々は恵みをもたらす海や山を始め、特定の木、岩、鳥獣にも神の力が宿ると考え、それらを神とみなし、いわゆる「八百万の神」を信じてきました。

 その信仰は創立者や特定の経典、教義が存在せず、長い歴史の中で自然発生的に形成されものだと見られています。

 「神道」という名前は、6世紀に仏教が伝来した際、それまでの日本の信仰と区別するために、その言葉が使われるようになったと言われています。

 日本では、神道と仏教が混在する歴史があり、「神仏習合」と呼ばれる時期が奈良時代から約1000年もの間続いていました。神道は仏教から大きな影響を受けたと言えるでしょう。

 明治維新以降、明治政府が神仏分離政策を打ち出し、それまで日本で行われていた神仏習合が終焉を迎えました。この政策により、神道は国家神道として位置づけられ、第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は「神道指令」を発令し、国家神道を解体しました。

 それ故、神道は日本の民間信仰、文化、伝統の一部として広く理解されているのです。

(文・一心)