経済の減速が続く中、中国の一線都市では新たな異変が起きています。かつては夢を追う人々の「希望の地」だった広州や上海が、今では失業や生活に行き詰まった人々の「最後の居場所」となりつつあります。橋の下や地下道、植え込みの中など、人が暮らすことを想定していない場所に、仮の住まいを求める人が増えているのです。

 そこには職を失った労働者、地方から流れ着いた若者、かつての経営者までが肩を並べています。こうした姿は個人の問題ではなく、中国社会が抱える深刻な雇用と福祉の課題を映し出しています。

橋の下に広がる「もう一つの都市」

 広東省広州市海珠区のある橋の下、地面には薄いマットが敷かれ、隅には古びたテントが一つ立てられています。そこに暮らすのは、重慶出身の中年男性です。彼はこの場所で、すでに2年以上生活を続けています。

 廃品回収で日々の糧を得ており、生活は意外にも規則正しく、ゴミはきちんと分別して捨てます。あるとき、バス停で拾った財布を元の場所で持ち主が戻るのを何時間も待ったといいます。「お金がなくても、人としてのモラルは失ってはいけない」と語りました。

 これは映画のワンシーンではありません。現代の中国、それも一線都市で実際に起きている現実です。橋の下には、宅配員やデリバリー配達員に加え、完全に生活に困窮した失業者や路上生活者も少なくありません。環境は劣悪で危険ですが、少なくとも雨風をしのげて家賃もかからない。彼らにとって、ここは「最良の選択肢」なのです。

 江蘇省塩城市から徒歩で広州市まで来たという若者も、すでに1週間ほど橋の下で寝泊まりしています。お金がなく、他の宿を探す余裕がないといいます。「1日3食はインスタントラーメンで、雨風が防げればそれで十分」。夏を迎え、彼はある廃棄された地下道を見つけました。「涼しくて、しかも人目につかないからいいのだ」と話します。

 中には「高給の仕事」に騙されて、こうした生活を強いられる若者もいます。河南省出身の20歳の青年は、武漢市で詐欺に遭い、所持金もなくなり、今は橋の下で暮らしています。彼は外部からの支援を拒み、人に対して強い警戒心を抱いています。「お前ら中介(仲介業者)が一番怖いのだ」と言いました。彼は5人家族の長男で、両親は自分に関心を持たず、弟妹はまだ幼いといいます。「俺はもうこんな状態だ。お前らに何ができるっていうのだ」と、あきらめの表情を浮かべて語りました。

かつての企業経営者たちも橋の下へ

 かつては資産を数百万元(数千万円)も持っていた元企業経営者たちが、いまやホームレスと肩を並べて橋の下で暮らしています。

 広州市内のある橋の下には、かつて会社を経営していた3人の男性がテント生活を送っています。そのうち1人の若者は、不動産業で財を成した元社長です。かつては金銭に不自由しない暮らしをしていましたが、いまは橋の下のテントに身を寄せています。

 もう1人の年配の男性は、過去に工場を経営していましたが、コロナ禍の影響で全てを失いました。工場は閉鎖、借金は膨らみ、事業の再建も叶わず、ここにたどり着いたといいます。

もう1人は、「ボス林(林総)」と呼ばれ、かつて再生資源回収業を営んでいた人物です。彼の会社は以前、富士康(フォックスコン)の廃品回収も請け負っていたといいます。そんな彼もいまは同じく橋の下のテントで暮らしています。

 また、上海の橋の下では、2年前にやって来たという中年男性がこう語っています。以前は小さな加工工場を経営したことも、1元の串焼き(ルー串)店を開いたこともありましたが、人手が足りず自分一人では回らなくなり、最終的に店を畳むことになったそうです。それでも彼は生活のリズムを崩さぬよう努力を続けており、自炊をしたり、自らスマートフォンで短編動画を撮影したりして日々を送っています。

都市部の失業者たちが直面する苦しい選択

 広州市のある地元ブロガーは「かつて賑わっていた体育西路(たいいくせいろ)は、今では通り一面に『店舗譲渡』の張り紙が並んでいる。今や小規模な会社は次々と倒産し、大企業でさえ人員削減や給与カットが進んでいる。その結果、デリバリーや宅配業務が失業者にとって一時的な働き口となっている。しかし、その仕事も数に限りがあり、競争は激しく、報酬もわずかである。1か月間がむしゃらに働いても、家族全体の生活費すらまかなえない」と語りました。

 36歳の楊さん(女性)は、工場で3年間勤めていましたが、たった5分で解雇を告げられました。「政策の変更により、会社は一時的に休業することを決めたとのことだが、再開の時期は未定である」と話します。学歴もなく、コネもなく、専門的な技能も持たない彼女にとって、失業後は日雇い仕事に頼るしかありません。また、住んでいる部屋の敷金も返ってこないため、家の近く5キロ圏内でひたすら履歴書を配る日々が続いています。

 1か月前に広州市へやって来たばかりの若い女性も、到着と同時に失業状態に陥りました。事務職やアシスタント職の面接を受けたり、倉庫管理の仕事にも応募したりしましたが、なかなか採用には至っていません。仕事内容は決して難しくないものの、地方出身者であることや未経験であることが障壁となり、面接のたびに断られているのです。

 「ある会社では、面接官にこう言われました。『北部の女の子がなぜ広州に来たの?すぐいなくなるでしょ』って」と彼女は語りました。「正直、自分でも何ができるのか分からない」と、戸惑いを隠せない様子でした。

個人の問題ではなく、社会全体が抱える構造的困難

 統計によれば、中国では2024年に一時、若年層の失業率が20%を超えたことがありました。最近は集計方法の見直しが行われましたが、それでも就職環境の厳しさは依然として続いています。

 とりわけ、これまで「チャンスの集まる場所」とされてきた一線都市においては、逆に人口の逆流や「都市の周縁に追いやられた人々」が集まる圧力鍋のような状態になっています。

 広州市や上海、深センなどでは、フードデリバリーや宅配の従事者が急増しています。これは一面では、プラットフォーム経済が一定の雇用を吸収していることを示していますが、同時に、実体経済が鈍化する中で、多くの人が働き口を見つけられず、進むべき道を失っている現実を浮き彫りにしています。

 その背景には、多くの工場や中小零細企業、個人店舗の倒産があります。かつての中間層の家庭でさえ、次第に崩れ始めています。ある人は「工場の社長から橋の下の住人になるまで、たった3年しかかからなかった」と語りました。

 ネット上では、「橋の下の暮らし」を記録した動画が次々と投稿され、広く関心と議論を集めています。ある人はその過酷な生活に衝撃を受け、ある人は「自分はまだここまで落ちていない」と安心し、またある人は共感や同情を示しています。

 中には支援を申し出る人もいます。仕事を紹介したり、食べ物を提供したり、福祉サービスとつなげようとする動きもありますが、成果は限定的です。多くの人は、プライドや警戒心、あるいは深い絶望から、そうした支援の手を拒んでしまうのです。

私たちは何に目を向けるべきか

 都市のきらびやかな表層の裏には、次第に広がる「生活のほころび」があります。失業から路上生活に転落するまでには、大きな距離は必要ありません。たった一度のリストラ、一度の詐欺被害、あるいは一度の起業の失敗が引き金となるのです。

 そして一度その「グレーゾーン」に足を踏み入れてしまえば、再び立ち上がるのは極めて困難です。

 誰もが再び社会の主流に受け入れられるわけではなく、誰もが「立て直しの余地」を持っているわけでもありません。ある者はかつての社長、ある者は社会に出たばかりの若者、ある者はまだ自立さえ始まっていない段階で、すでに現実に打ちのめされています。彼らに共通するのは、「行き場がない」という絶望です。

 本来、都市の橋の下は人が住むために設計された場所ではありません。しかし今やそこは、社会の主流から一時的に忘れ去られた人々を静かに受け入れる空間となっています。

 彼らの存在に目を向けることは、単なる同情ではありません。それは、中国当局の経済政策と社会保障制度に対する静かな問いかけでもあるのです。

(翻訳・藍彧)