人情の溢れる世界 豊子愷の芸術.

 中国近代の有名な画家・豊子愷(ほう・しがい)。本名は豊潤、字は子愷、中国浙江省崇徳県石門鎮(現在の嘉興市桐郷の石門鎮)で生まれ、絵画、書道、文学、教育、音楽と建築の多岐にわたって優れた芸術家です。1920、30年代から、彼は東洋と西洋を融合させた画法で創作した漫画は、抒情(じょじょう)を主な表現手法として、中国庶民の素朴な日常生活における趣きや、ささやかな情感を細やかに語り、物事への慈しみを表現しました。彼は「漫画」を中国に導入した第一人で、中国現代美術史上初の漫画家とも称されていて、独自のスタイルや作風を中国伝統文化の特色と融合させた作品を作り出しました。

 豊子愷は幼い頃から芸術を愛好していて、1914年に浙江省第一師範学校に入学し、弘一(こういつ)法師(俗名は「李叔同」)に師事して絵画と音楽を学びました。豊子愷は、弘一法師を自分にとって真の意味での最初の師匠として仰いでいました。弘一法師は音楽や絵画だけではなく、人としての心構えも教えたため、豊子愷は彼から多くの貴重なことを学びました。

弘一法師.

 弘一法師はとても真面目な人ですので、豊子愷も何事にも丁寧でしっかりした人です。弘一法師は人格の修養を重んじ、「優れた芸術家になるにはまず立派な人間でなければならない」と考えているので、豊子愷も生涯にわたり教養のある立派な君子で、「偉大な芸術家は必ず偉大な人格者であるべき」と考えていました。弘一法師は仏教に帰依し、常に慈悲深い心を持っているので、豊子愷も世の人々と物事に寄り添う思いを抱き、彼の絵には人間だけでなく、猫、鳥、木や花などに対しても温かい眼差しが注がれています。

 豊子愷は弘一法師の人格の魅力と仏教思想の影響を受け、弘一法師を師と仰ぎ、仏教に帰依しました。弘一法師から「嬰行」の法名を授けられました。

 豊子愷の作品について、彼の絵を愛する人は豊子愷を芸術の巨匠と高く評価します。一方で、そうは思わない人は、彼の絵は中国風でも西洋風でもなく、上品な芸術ではないと評します。しかし、豊子愷の絵は、彼以前にも以後にも描かれたことなく真新しいものでした。当時、豊子愷の絵は非常に安価だったため、旧上海の路地にある床屋や銭湯、ワンタン屋台などにも飾られていました。行商(ぎょうしょう)、船頭(せんどう)や荷役(にやく)の人々も彼の絵を回し読み、年配の人から子供、さらには文字の読めない人までも彼の絵を好んでいました。

 豊子愷の絵は簡潔で洗練され、非常にシンプルですが、人間の率直さ、優雅さ、穏やかさや美しさを描き出し、さらに、人生の苦労や辛さも表現しました。豊子愷の豊かな文化素養、人格や個性、そして文学や仏学などの芸術教養はすべて、彼の漫画創作にインスピレーションや独特な視点を与え続けました。中国の伝統絵画において、「画格は人格」という伝統的な美学的観点があり、芸術家の人格、気質、思想のすべてが作品に反映されていることを指し、彼の作品を鑑賞する際の重要な視点の一つでもあります。

 次に、中国美学における表現手法の一つ「抒情」は豊子愷の作品の主な表現法としていました。作風から言えば、豊子愷の漫画は「中国画」と「漫画」の中間に位置し、中国水墨画の減筆技法を受け継いで、画風が率直に自然で、構図は簡潔に明快で、筆致が軽くて伸びやかです。「中国風の趣き」は彼の漫画の美学の核心です。中国の風情に富む彼の漫画には、詩的な情景、人生の哲理や文学的素養を中国伝統画に特有の筆墨で表し、さらに、簡略化、象徴、デフォルマシオンなどの表現技法を存分に受け継ぎながら発展させました。

 豊子愷は日本とも深いゆかりを持っていました。豊子愷は日本に留学した弘一法師に日本語を学びました。1919年、浙江省第一師範学校を卒業した豊子愷は、先祖から受け継いだ財産を売却し、義兄から400元を借りて日本・東京に短期留学を始め、海外で美術を学ぶ夢を実現しました。

 ある日、彼は古本屋で竹久夢二(たけひさゆめじ)の『夢二画集-春の巻』(1909年)に出会いました。竹久夢二は独学で成功を収めた日本画家で、減筆技法を専攻し、構図の技法は西洋から引き継ぎましたが、作品には東洋の趣きが満ちていました。豊子愷は竹久夢二の絵を「文字のない詩」と評価し、彼の作品から美術における自分の道を見つけました。1922年12月、豊子愷は漫画を創作し始め、その漫画には竹久夢二などの初期の絵の強い影響が見られます。

 豊子愷は10ヶ月間日本に留学し、資金が尽きたためやむ得ず中国に戻りました。帰国後、生計のために再び教職に就き、教職の傍ら英語と日本語の翻訳にも携わりました。1954年に、上海に中国日本語学院が設立される際、豊子愷が初代院長となり、唯一の教師ともなりました。

 1961年から1965年までかけて、豊子愷は『源氏物語』を翻訳しました。しかし、文化大革命のために出版することはできませんでした。1980年、豊子愷没後に『源氏物語』の翻訳が出版されましたが、1978年に出版された台湾の林文月の翻訳より後になってしまいました。ところが、林文月の翻訳、註釈で説明する必要がある直訳が多い中、俗語と文語的表現が混ざることも多く、読みづらいとの声もありました。一方、豊子愷の翻訳は、多くの中国人にわかりやすいように臨機応変で翻訳しており、その文体は白話小説に近くて、自然で読みやすいと言われています。

 歴史の移り変わりは予測できないものでした。1966年5月、「文化大革命」が始まりました。当時、豊子愷は上海中国画院の院長を務めていました。

 6月、上海中国画院に豊子愷を批判する最初の「大字報(だいじほう、壁新聞)」が掲示されました。それは、『上海文学』1962年8月号に掲載された豊子愷の随筆『阿咪(アミ)』を標的にしたものでした。豊子愷はかつて『白象』という文章の中で、「白象」という名前の猫が壮士のような勇ましさと気高い気質を持っていると称賛しました。『汚職の猫』という文章で、猫の愛らしい貪欲を冗談めかして描写しました。この『阿咪』という文章も、豊子愷が家で飼っている非常に可愛らしい猫を描いただけの文章でしたが、誰も予想しなかったことに、この文章にあった「猫伯伯(マオボーボー、猫おじさん)」という言葉が原因で罪に問われることになりました。

 「この猫の名前は「猫伯伯」です。私たちの故郷では、「伯伯(ボーボー)」が必ずしも叔父に対する敬称ではありません。浙江省の方言では、鬼を「鬼伯伯」、泥棒を「泥棒伯伯」と呼ぶことがあります。したがって、猫もを「猫伯伯」と呼んでもよいでしょう」(『縁縁堂随筆集・阿咪』より抜粋)

 随筆に書かれたように、中国江南地域では「伯伯」という言葉がごく普通に使われています。しかし、大字報では、「猫(マオ)」は毛沢東の「毛(マオ)」と同じ発音であることから、「猫伯伯」は毛沢東を暗にほのめかしていると非難しました。

 この後、豐子愷は徹底的な批判を受けてしまい、「反動学術権威」「反共老手」「反革命黒画家」などのレッテルをはられ、その作品の多くは意図が不自然に歪曲され、「毒草」「黒画」とされてしまいました。そして、彼の家は何度も家宅捜索を受け、当時貴重品だったテレビが持ち去られ、筆、書籍や書画が運び出されました。そして、約170点の書画が詰められた四つの大きい箱と、10冊以上の写真集も持ち去られました。さらに信じがたいことに、彼の約七千元の預金までも没収されました。

 72歳の時、豊子愷が農村で「労働改造(ろうどうかいぞう)」を受けた後、重い病気を患いました。彼は突然手が止められないほど震え出し、続いて全身がしびれ、高熱が下がらなかったため、上海華山病院に搬送されました。1975年、豊子愷は肺がんの終末期で病院で亡くなり、享年77歳でした。

 豊子愷は優れた芸術家、文学者、翻訳家だけでなく、苦しむ人々に寄り添い、温厚で礼儀正しい人格者でもありました。彼の作品に「画格は人格」という伝統的美学観を完璧に体現しました。そのため、中国共産党(中共)から深く妬まれる一方で、多くの読者の心に深く刻まれました。

(文・戴東尼/翻訳・心静)