1931年9月18日の満州事変を契機に日中関係が悪化しました。満州で軍事行動を展開していた日本軍は、戦火を中国本土に拡大し、1932年1月28日に、繁華都市の上海で中国軍との間で軍事衝突を起こし、いわゆる上海事変が起きました。
市街戦で上海の街は大きな被害を受け、中国における反日感情は空前の高まりを見せていました。このような状況の中、当時、中国各地を歴訪していた『大阪毎日新聞』の慰問団が、事変の最中に上海市を訪れました。
慰問団団長を務めていたのは日本の生物学者の西村真琴博士(1883年〜1956年)でした。
西村さんは戦乱で廃墟となった上海三義里街で、傷ついた一羽の鳩を保護して、それを日本に持ち帰り、それが縁で中国の文豪である魯迅との間に交流ができ、戦火を乗り越えた友情が生まれたのです。
以下はその心温まるエピソードです。
一、上海事変
1932年1月18日、上海の共同租界で日本人の僧侶が中国人に襲撃され、死亡する事件が起きたことを機に、日本海軍陸戦隊が出動し、1932年1月28日に中国軍と衝突しました。
当初、日本は短期決着を目指していましたが、中国軍が頑強に抵抗したため、日本軍は陸軍部隊をさらに増強し、中国軍との間に激戦を繰り広げました。
上海事変が起きた時、魯迅は上海で作家活動をしていました。
魯迅が住んでいたアパートは日本の陸戦隊本部に近く、銃弾が壁を貫通して飛んでくる有様だったといいます。
丸山昇の『上海物語』の中で、当時の様子が以下のように記されています。
「魯迅はまた内山完造の勧めで、家族とともに内山書店の二階に移った。流れ弾を防ぐため、窓を厚いふとんで覆い、じっとこもっていると、外の銃声や、土嚢を積んだ傍らを往復する衛兵の靴音などが、手にとるように聞こえた。魯迅ら一家は、二月六日までここで過ごしたのち、さらにここも安全ではないというので、イギリス租界漢口路の内山書店の支店に避難した。」
1932年5月5日、日中両国が停戦協定を締結して、上海事変の収束を迎えましたが、その間、双方で4万人近くの死傷者が出て、その中には1万〜2万人の中国の民間人が含まれていました。
二、事変の最中での上海訪問
1932年2月、事変の最中に『大阪毎日新聞』の慰問団が上海市を訪れます。
慰問団団長を務めた西村真琴は、日本の生物学者で、元北海道帝国大学教授でした。長野県生まれの西村さんは、1909年満州に渡り、南満州遼陽小学校長や奉天の南満医学堂生物学教授を経て1914年に渡米、コロンビア大学で植物学を学び、博士号を取得し、帰国後北海道帝国大学の教授となります。
閉塞的な帝大に嫌気がさした西村さんは、1927年、大阪毎日新聞に入社し、論説員学芸部顧問となり、保育事業の推進や科学啓蒙活動に努めました。
慰問団団長として上海を訪れた西村真琴は、市街戦で廃墟と化した街を見て、心を痛めます。そして、 「三義里」という街の一隅に、飢えて飛べなくなった一羽の鳩を見つけました。
このまま放っておくと鳩が餓死してしまうと判断して、西村さんはその鳩を日本に持ち帰り、上海の街「三義里」にちなんで、鳩に「三義」という名をつけました。
「はじめは新聞社の鳩舎に入れていましたが、他の鳩ともよく慣れたので、とくに仲のよい一羽とともに、豊中市穂積(現在の服部西町)の自宅で家族同様に育てました。
博士は小鳩が生まれたら、日本と中国友好の証として上海市に送るつもりでした。講演会のたびに仲のよいこの鳩をともない、鳩をとおして両国民の親善を説いたといいます。
3月16日 鳩はイタチに襲われて死んでしまいました。同情した村の人たちが野面石をもちこみ、塚を立て、博士の自宅庭先にある藤の根近くに、そのなきがらを埋めました。 」
(説明「三義塚の由来」より)
三、鳩を介して生まれた友情
その後、悲しみのあまり、西村さんは鳩「三義」の姿を絵に描き、詩とその由来を添え、「三義」は死んでしまったが、かわって自分が日中関係の修復のため努力する、という趣旨の手紙を、上海にいる魯迅に送りました。
西村さんの詩は以下の通りです。
西東 国こそ違(たが)へ 小鳩らは 親善あへり 一つ巣箱に
1933年4月29日、西村からの手紙と鳩の絵を受け取った魯迅は感激して、1933年6月21日に七言律詩『三義塔に題す』を詠みました。
奔霆飛熛殲人子、敗井残垣剩餓鳩
(戦火が人の命を奪い、廃墟となった街に飢えた鳩が取り残されていた)
偶値大心离火宅、終遺高塔念瀛洲
(運よく寛大な人に出会って災難から逃れ、最後は日本に記念の塔が建てられた)
精禽夢覚仍銜石、斗士誠堅共抗流
(東シナ海を平定したという伝説の鳩が再来したように、日中の有志は時流に抗して戦った)
度尽劫波兄弟在、相逢一笑泯恩仇
(幾多の災難を乗り越えていけば兄弟がいて、会って笑えば恩讐は消える)
魯迅は、詩の前半で、爆弾や銃火によって人々が殺傷され、町が荒廃し、鳩まで戦火に巻き込まれた惨状を描き、戦争の悲惨さを訴えた一方、後半では戦乱によって衰弱した鳩が、日本の友人に助けられ、死んだ後も墓まで作られ、友人の心の優しさを讃えました。
そして、詩の最後を「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、相逢うて一笑恩讐ほろぶ」という句で締め括り、軍国主義者による戦争という苦難を乗り越えれば、日中両国はきっと友好的に付き合っていくことができると深く信じている、という気持ちを表しました。

「三義塚は、博士が1956年1月に72歳で亡くなった後、1981年の春に、彼の旧宅から、豊中市本町8丁目の孫娘の家の庭先に移され、大切に守られてきました。
その後、『三義塚』は、1986年10月の豊中市制50周年を記念して、博士のゆかりの深い中央公民館に移され、今日にいたります。」(説明「三義塚の由来」より)
三義塚の墓石は、最初文字無しの野面石でしたが、後に、当時駐華公使の重光葵が「三義塚」を揮毫し、その文字が彫られました。ちなみに、重光葵は終戦時日本全権大使として米戦艦ミズリー艦上降伏調印式に臨んだ外務大臣です。
小さな「三義塚」には、西村真琴、魯迅、重光葵のそれぞれの想い、そして日中戦争の歴史が凝縮されています。
おわりに
魯迅が「三義塔を題する」という詩を書いたのは1933年で、今から90年以上も前のことですが、彼が期待した日中の友好関係は実現したのでしょうか?
中共はしばしば魯迅の名詩を引用して、偽りの微笑みをばら撒きながら、日中友好を鼓吹していましたが、実際には、長年にわたって、中国国民に反日の洗脳教育を行い、憎しみに満ちた歴史認識を植え付け、ナショナリズムを煽り、日本に敵意を持つ若い世代を大量に育成しました。
「偽、悪、闘」を信奉する中国共産党は、「忍耐と寛容」、「慈悲心」といった道徳と信仰の基盤を完全に破壊したのです。
「三義塔に題す」の名句、「荒波を渡り尽くせば兄弟あり、相逢うて一笑恩讐ほろぶ」について、魯迅の当時の気持ちに置き換えて言うならば、「中共独裁支配による災難や苦労を乗り越えてこそ真の日中友好が生まれる。たとえお互い憎みあっていても、私たちはもとより兄弟である。会ってにっこり笑えば長年の恨みも消えてしまうであろう」というふうになるのではないでしょうか。
(文・一心)