中国は詩の国です。中国人の生活の中に、王侯貴族から庶民まで、詩の足跡が至る所にみられています。例えば、清の乾隆帝は有名な詩人皇帝として知られ、生涯に約1万の詩を詠みました。盛唐の時代、庶民たちは白居易(はく・きょい)の詩を紙に書き写して、まるで貨幣のように、街や市場で売ったり、酒や茶と交換したりしました。このように、詩はすでに中国人の生活の一部となっています。
唐の時代(618~907年)は、しばしば中国文化の最盛期だったと言われます。「詩」がとりわけ花開いたのは、玄宗皇帝の治世でした。唐王朝期の有名な詩人たちの作品はいずれも今日まで愛されていますが、この時代を象徴する詩人を挙げるならば、数多くの作品を残し、「詩仙」と称される李白(り・はく)をおいてほかにいません。
李白は長安に滞在していた頃、玄宗皇帝の依頼で『清平調』という詩を三首詠みました。これは長安の滞在期間において李白が作った詩の中で最も有名で広く読まれた作品の一つです。
玄宗帝の治世、開元年間。宮中の沉香亭という庭では貴重な牡丹が植えられていました。花が咲く季節になると、紅と紫の花が咲き乱れ、それは見事なものでした。そんなある日、玄宗皇帝と楊貴妃は、宮中で最も有名な音楽家である李亀年(り・きねん)を連れ、沉香亭へ花見に行きました。このような良き時と美しい景色の中で、音楽がないはずはありません。
ところが、この情景があまりにも美しいと感じた玄宗は、これほど美しい花々、そしてこれほど美しく愛おしい妃を前に、今までの詩はこの趣を表現できないと感じました。そこで、急遽、翰林学士の李白を沉香亭に呼び寄せ、新しい詩を詠むように命じました。すると、李白は花模様のある金の詩箋の上に筆を走らせ、たちまち三首の『清平調』を書き上げ、献上しました。
玄宗はそれを見て大変満足し、すぐに楽師たちに音楽を奏させ、李亀年に歌わせました。楊貴妃は月明かりの下で舞い、玄宗自身も玉笛を吹きました。まさに至福のひとときでした。
ここでは、三首の『清平調』の中で最も広く伝わる一首目をご紹介します。
雲想衣裳花想容
春風拂檻露華濃
若非群玉山頭見
會向瑤臺月下逢
雲には衣裳を想い 花には容を想う
春風檻を払うて 露華濃やかなり
若し 群玉山頭に 見るに非ずんば
会ず 瑶台月下に 向かって逢わん
この美しい五色の雲を見ると楊貴妃の衣装が思われ、牡丹の花を見ては美人のあでやかな容色が連想されます。いま春風が沈香亭の欄干を吹き渡る中、光る露はこまやかにしっとりと輝いています。このような美人は、西王母の住む群玉山のほとりでもお目にかかるのでなければ、きっと月光の降り注ぐ玉でつくられた宮殿でしかお逢いできないでしょう。
この詩では、巧みかつ自然な表現で楊貴妃を艶やかな牡丹に、そして天女に喩えます。華やかな言葉遣いは、生命の美しさと輝きを放ち、太平の世の繁栄を映し出しています。そして、この宴における楊貴妃の美しさを、今に伝えているのです。
李白が『清平調』を作詩したという話は、神韻芸術団によって舞踊劇『李白』として脚色され、世界中で上演されています。舞台では、李白が作詩した時のロマンチックな場面や痛快な筆致が見事に表現され、観客は夢中になって、見入っています。
これから2025年2月9日まで、名古屋、京都、西宮、堺、大宮、東京(渋谷・八王子・文京・上野)、大阪の12カ所で公演を行います。神韻でしか観られない舞踊と生演奏のオーケストラの饗宴という特別な体験を、劇場でお楽しみください。
(文・雲中君/翻訳・宴楽)
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