中唐の詩人である白居易(イメージ:看中国/Vision Times Japan)

 白居易(はくきょい、772年2月28日―846年9月8日)は中唐の詩人で、別名は白楽天とも言います。白居易は多作な詩人で、現存する詩と散文の総数は、約3800首にものぼり、唐代の詩人の中で最も作品が多い事から、後世から「詩王」と称されています。

 白居易の詩は内容が多彩で、言葉が解りやすく、当時の中国社会では、身分関係なく、老若男女から幅広く受け入れられました。

 中国国内のみならず、白居易の詩文集『白氏文集』は海を渡り、平安時代の日本の貴族社会でも大流行し、紫式部も清少納言も『白氏文集』の愛読者でした。『白氏文集』は『源氏物語』や『枕草子』の中で多く引用されるほど、平安文学に多大な影響を与えました。

 詩人として一世を風靡しただけではなく、白居易は出世運にも恵まれ、翰林学士,左拾遺などを経て、太子賛善大夫(太子の教育顧問)の要職に務めました。しかし、政争の荒波に翻弄された白居易は、50歳の頃、地方の杭州に左遷されました。そこで、鳥窠道林(ちょうか・どうりん、741年―824年)という禅僧に出会ったことは、白居易のその後の人生に大きな影響を与えることになりました。

 杭州の長官として赴任して来た白居易は、この杭州の地に、木の上で坐禅をする名物禅僧がいると知り、その不思議な行動に興味を持ち、ある日、道林禅師のもとを尋ねました。すると、道林禅師が本当に木の上で坐禅をしているのを目の当たりにしました。

(写真撮影:萍聚)

 そこで、白居易は「禅師、そんな所で坐禅をしていては危ないのではないですか?早く下りてください」と言うと、
道林禅師は笑いながら、「貴方のほうが危険に見えますが」と応えました。

 白居易は納得が行かず、「私は杭州の長官をして、この辺りを治めており、何の危険があるというのでしょうか」と聞くと、
「薪が燃えるかのように、煩悩の炎が燃えあがっています。どうして危険がないなどと言い切れるのでしょうか」と言いました。

 自分の政界での境遇をずばり見抜いた禅師の事を感心して、白居易は、
「では、仏教の神髄を教えてください」と言いました。
「諸々の悪を行わず、善を行うことでしょう」。

 もっと立派な回答を期待していた白居易は、「そんな事は3歳の子供でも知っていますよ」と軽んじて気に留めませんでした。
 すると道林禅師は、「確かに3歳の子供でもその道理は知っていますが、80年生きた老人でも、この道理に沿った生き方をするのは難しいでしょう」と厳しい口調で言いました。

 それを聞いた白居易は心を打たれ、自分の無知と高慢を恥ずかしく思い、道林を師と仰ぎました。彼は西湖の傍に竹閣(後の広化寺)を建て、そこへ移り、朝に夕に禅師を訪れ、参禅し、修行の道を歩み始めました。

 白居易は名利を放下し、人生の真諦を悟り、修行の中で、進歩が速く、早いうちに「宿命通」という神通力を身に付けました。白居易は『自解』という詩の中に、「我亦定中観宿命、多生負債是歌詩……」、つまり、「我が座禅して入定して見ると、これまでいくつもの輪廻転生の中で、常に詩と縁があった」と記しました。

 晩年、白居易は更に心を修め、修行を精進し、自分の詩人としての才能や名声、官吏としての業績等を取るに足りないものと見なし、来世も引き続き佛を修めたいとの願いを発しました。彼は「楽天常有愿,愿以今生世俗文笔、放言綺語之因、翻為来世賛佛乘、轉法輪之縁也」、つまり「今生世俗の文字、放言綺語の因をもって、転じて将来世世に讃佛乗、転法輪の縁と為したい」(『蘇州南禅院白氏文集記』)と書き記しました。

 白居易は偉大な詩人として後世に名を残したたけではなく、著名な仏教徒としても歴史に名を残しました。

(文・一心)