(イメージ / pixabay CC0 1.0)

 ある日の夕食後、私は父と一緒に公園へ散歩に行きました。

 ある交差点を通りかかると、道端にボロボロの服を身にまとった中年の男性が座っていました。その男性は二胡を弾いていましたが、その演奏はどちらかというと下手な方でした。彼の前には古い茶碗が置かれていましたが、お金をあげる人が余りいなかったのか、中に小銭がぽつぽつと入っているだけでした。

 父は立ち止まり、その人の演奏をしばらく聞いていました。そして私に「彼の演奏を聞いたので、お金を払うべきだよね!お金を渡してきてくれるかい?」と言いました。

 私は、父から一枚のコインを受け取り、男性の前に行き、古い茶碗の中にそのコインを投げ入れました。コインは、茶碗の中で何度かコロコロ回り翻った後、その茶碗の中で静かに横たわりました。

 すぐに男性は演奏しながら「ありがとうございます」と、私にお礼を言ってくれました。

 私は、学校で先生に褒められて、まるで背後から大勢のクラスメイトの感心の眼差しを受けているようで、とても嬉しくなりました。私は、再び父の元に駆け寄り、父からの褒め言葉を期待していました。

 ところが、意外にも父は褒め言葉を言わず、少し厳しい顔をして「君はどうやってお金を渡したの?」と私に質問しました。

 私は「ちゃんと茶碗の中に投げたよ。コインがコロコロ転がり音も鳴っていた。あの物乞いは笑って、私に『ありがとう』って言ってくれたよ」と答えました。

 すると父は「お金を投げることは、あの人に対して失礼だから、投げてはいけない!」と言いました。

 父が言ったことを、十分理解できなかった私は「でも、お父さん、あの人は物乞いでしょう?」と言い返しました。

 すると父は、私の頭を撫でながら「あの人は、自分の演奏でお金を稼いでいるけど、誰にもお金を下さいって言ってない。だから、私たちは、お金を払いたくないなら払わなくても良いけど、払うなら礼儀正しくお金を渡すべきだ。君はどうやってコインを渡すべきだったか分かったかい?たとえ彼が物乞いであっても、私たちと彼は平等だよ。人と人は法律上だけでなく、それぞれの人間としても平等だ。立場の弱い人を尊重することは、自分自身を尊重することでもあるんだよ」と教えてくれました。

 やっと父の話が理解できた私は、父からもう一枚コインをもらいました。そして再び、その人の前に行き、腰をかがめ、茶碗の中へ丁寧にコインを入れました。その後、この出来事を省みながら、父と手を繋ぎ家まで帰りました。

 その夜、家に帰ると、父は「腰をかがめること」に関する物語をいくつか話してくれました。

 アメリカのとある企業の社長さんは、仕事から帰宅する途中、道端で鉛筆を売っている足の不自由な退役軍人を見掛けました。社長さんは立ち止まり、何枚かのコインを退役軍人の前に投げると、また急いで歩き出しました。

 しかし、社長さんは何歩か歩くと、すぐに退役軍人の前に戻ってきました。そして、社長さんは腰をかがめ、「ごめんなさい。あなたは鉛筆を売っている方ですね。先ほどは大変失礼致しました」と、何本かの鉛筆を手に取りながら、退役軍人に謝ったそうです。

 また、中国のある有名な作家さんが、家で文章を書いている時、一人の物乞いが家の戸を叩きました。作家さんは、物乞いにお金を渡そうと思いましたが、手元にお金が見当たりませんでした。仕方なく作家さんは物乞いの所へ向かうと、腰をかがめ、汚れた物乞いの手を握りながら「今手元にお金がないので、必ず後日、届けに行きます」と謝りました。

 すると、その物乞いはとても感激し「あなたの握手は、私が頂いた中で最高の施しです。ありがとうございます!」とお礼を言ったそうです。

 私は思いました。本来「思いやり」とは、簡単に与えるだけ、単純に憐れむだけのことではありません。本当に大切なのは、たとえ相手が自分より弱い立場の人でも、同じ人間として尊重し、対等な態度で思いやることなのです。腰をかがめたその瞬間、相手に「本当の思いやり」が伝わるのです。

(翻訳・心静)