聖武天皇像(パブリック・ドメイン)

 聖武天皇は日本の第45代天皇で724年~749年に在位していました。在位中、聖武天皇は遣唐使を2回送り、積極的に唐代の文化を取り入れ、唐から帰国した吉備真備と玄昉を重用しました。聖武天皇は仏教を深く信仰し、仏教の力によって疫病や兵乱、不安を鎮めようとして、国分寺・国分尼寺建設と東大寺に大仏建設の詔(みことのり)を発しました。そして、戒律を伝授する目的で、唐から鑑真を招き、正式な僧侶となるための授戒儀式を行う東大寺戒壇院を創設するなど、漢風・仏教風の文化を日本社会へ浸透させました。

 聖武天皇の在位中、日本国内に様々な社会不安が広がりました。733年の大飢饉、734と745年に起きた2度の大地震、735~737年に猛威を振るった天然痘、740年に起きた藤原広嗣の乱等、この乱世に聖武天皇は心を痛めました。

 古代中国には、「天人相関説」と言う儒教思想がありました。それによれば、天と人は密接な関係にあり、相互に影響し合い、特に天子の所業は自然現象に象(かたど)られ、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来等をもたらすという考えでした。この「天人相関説」から影響を受けた聖武天皇は、自らの政治が悪いからこのような天変地異が起こったのだと考え、社会の混乱は自分の責任だと自責しました。「責めはわれ1人にあり」、「災いの責任は、国を治める私にあるのだ」と歴史書『続日本紀』に記されています。

 必死になった聖武天皇は、仏教の力によってこの不安定な世を救おうとしました。『続日本記』によれば、聖武天皇は743年に「大仏の詔」を発し、「私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳は未だ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う……(大意)」と巨大な仏像の鋳造を命じました。

 こうして、高さ15mもある奈良東大寺の大仏像が建設されました。大仏が完成を迎えたのは造立の詔を発してから9年経った752年で、4月9日に東大寺で盛大な大仏開眼供養会が行われました。

東大寺 大仏殿(Wikimedia Commons/Wiiii CC BY-SA 3.0)
盧舎那仏像(大仏)西側より(Wikimedia Commons/Jakub Hałun CC BY-SA 4.0

 一方、仏教に深く帰依した聖武天皇は、大仏が完成する2年半前の749年8月19日、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、出家してしまい、史上最初の男帝の太上天皇となりました。「続日本記」「東大寺要録」によれば、大仏開眼供養会の当日、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始めとする百官が並び、僧1万人が参列し、開眼の儀式を担う僧としてインド僧や唐僧も参加し、仏法東帰以来、初めての盛大な斎会が行われたとのことでした。

 そして、過去に5回もの渡航の失敗に屈しなかった唐の高僧・鑑真は754年1月9日についに日本に辿り着きました。754年4月5日、大仏殿前の戒壇で、鑑真は仏教心の厚い聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め、多くの僧尼ら総勢440人に「授戒の儀」を授けたのでした。

 東大寺開眼供養会が行われてから4年、鑑真から菩薩戒を受けてから2年後の756年5月2日、聖武天皇は亡くなりました。56歳でした。

(文・一心)