武訓(ぶくん、1838年―1896年)

 武訓(ぶくん、1838年―1896年)は清代末期の教育者であり、近代中国における教育の先駆者でもある。彼は堂邑県(現在の山東省冠県)柳林鎮武庄の出身で、非常に貧乏な家に生まれ、幼い頃から苦労を重ねた。元の名前は武家の七番目に生まれた子供という意味で武七、後に清の朝廷が彼の功績を称えて「訓」という名前を下賜し、彼は武訓と呼ばれた。

 武七は3歳のときに父親を亡くし、7歳で母親を亡くした後、乞食をして生活していた。しかし、読み書きもできない文盲だった彼の心の奥には、ずっと夢が宿っていた。それは、自分で資金を集めて義学(無料の学校)を作り、貧しい子供たちが学校に通えるようにするという壮大な夢だった。

 武七は自分の夢を実現するため、21歳の頃から活動を始め、各地を彷徨いながら金を集めた。彼はあちこちで見知らぬ家の雑用をする傍ら、暇さえあれば家々をまわり、物乞いをした。物乞いをして少しでもよい食べ物や使えそうな服が手に入ると、それを売って金に変えた。彼自身はいつもみすぼらしい服を着て、毎日粗末なパンを二つ食べるだけで済ませた。

武訓の旧居跡(ネット写真)

 彼は時折、各地をさすらう旅芸人のように自分の体を錐(きり)で刺したり、刀で頭を打ち、大きな釜を持ち上げたりする芸を披露しては、観客から金を集めた。このように集めた金がある程度貯まると、彼はその金を商人に貸して利子を取り、金を増やした。

 こうして徐々に貯まった金で、将来の学校運営に必要な経費を稼ぐための土地を購入した。長い歳月が経ち、武七は相当の金を集めることができた。彼は多くの人の侮蔑と蔑視を受けながらも、依然として物乞いを続け、山東、河北、河南、江蘇省などをまわった。

 このようにして30年が過ぎた光緒14年(1888年)、武七は自分が集めた資金を投入し、堂邑県柳林鎮の東門の外に『崇賢義塾』をついに開校した。不可能だと思われた大きな夢を実現させたのだ。彼はその後、優秀な教師を求めて評判のいい進士や挙人(きょじん)を訪ね、土下座をして義塾の教師になるよう説得して回った。また、生徒を集めるために、一軒一軒貧しい家を回り、親に土下座をして大事な子弟を自分の学校に通わせるよう頼んだ。このようにして約50人の生徒を集めたが、一銭の学費も取らなかった。学校運営に必要な経費はすべて、武七が所有している学校の土地の収入で賄った。

山東省冠県にある崇賢義塾の舊址(ネット写真)

 以来、毎年新学期が始まる時、武七はすべての教師に叩頭して礼を尽くし、生徒たちにも、毎回礼をする儀式を数年間も続けた。

 武七自身は文盲であったが、教師をとても敬い、神を祀るよりも丁重に扱った。教師らが食事をする時はいつも、彼は門の外に立って頭を下げ、静かに食べ物を運び、教師たちが食事を終えた後、残った食べ物で自分の腹を満たした。

 彼は常日頃、義塾のあちこちを見まわり、熱心に教える教師を見るとその前で叩頭し、感謝の礼をし、時に熱心でない教師を見ると、やはりその前で叩頭し、これからは一生懸命教えるようにと願った。悪ふざけをしたり、うわべだけの勉強をしたりする生徒を見ると、彼の家に行って土下座をし、涙を流しながら真剣に勉強に励むことを勧めた。このように自分のすべてを犠牲にして真心で接する彼の姿に、教える側も学ぶ側も皆努力するようになり、学問を成し遂げる人物が徐々に増えていった。

 その後、武七は隣近所の寺院や官庁、郷紳らの助けを得て1890年に館陶県(今の河北省邯鄲市)楊二庄に2番目の義塾を開校し、1896年には臨清(今の山東省臨清県)に「御史巷義塾」(現在の臨清実験小学)を設立した。武七のこのような行いは、徐々に周辺の地域にも知られるようになり、後には清の朝廷にまで伝えられた。

 清の朝廷は彼の行いを高く評価し、特別に「訓」という名前を授けた。光緒22年(1896年)4月23日、武訓は臨清の「御史巷義塾」で学童らの朗々たる読書の声を聞きながら、笑顔を浮かべたままこの世を去った。享年59歳だった。

 彼の遺体は崇賢義塾の東側に葬られ、葬儀には堂邑・館陶・臨清の官人・郷紳らをはじめ1万人以上の群衆が参列した。

 中国の歴史上、乞食の身分で正史に記載された人物は、おそらく彼が初めてであろう。武訓は一生、一心に学校運営のことだけを考え、生涯独身を通した。

 貧しい家の子供たちが無料で勉強できる学校を作るために、自分のすべてを捧げた武訓の一生は、その後多くの人々の共感を得た。 1950年には彼の一生を描いた『武訓伝』(ぶくんでん)という映画が作られ、中国全域で大きな人気を集めた。

(文・蓮成)