テレサ・テン(パブリック・ドメイン)

 中国のテレビ番組で相次いで「バーチャルヒューマン(VH)」が起用され、注目を集めている。VHはAI(人工知能)や3DCGなどの技術を駆使して生み出す、人間そっくりなキャラクター。2021年12月31日の夜、中国江蘇テレビ(江蘇衛視)の2022年年越しコンサートで、バーチャル技術で歌手の周深氏が故台湾歌手テレサ・テンと「大魚(ビッグフィッシュ)」などの名曲を歌った。ネット上で大きな話題となった。

 テレサ・テンと中国の歌手・周深氏は2021年12月31日、中国江蘇テレビの大晦日年越しコンサートで、時空を超えて「小城故事(小さい町の物語)」「漫步人生路(ひとり上手)」「大魚」の3曲を歌ったと、香港の中国共産党(中共)機関紙「大公報」の報道で分かった。

 報道によると、テレサ・テンのステージ上での「復活」は、中国のテクノロジー企業が人工知能(AI)などのさまざまな新技術によって実現させて、テレサ・テンを「実在の人物としてよみがえらせた」

 テレサ・テンの「舞台復活」に、台湾海峡両岸のネットユーザーが激怒

 映像制作会社が「テレサ・テンの声源を抽出し、特殊技術で合成した」とし、バーチャルなテレサ・テンがステージで新曲「大魚」を歌うことを可能にしたという。しかし、番組最後のスタッフリストに「陳佳の吹き替え」が表示されていることに気づいた中国のネットユーザーがいた。テレサ・テンの声は、AI技術で作り出したのではなく、舞台裏で本物の人間が歌っていることが判明した。真相が明らかになった後、中国のネットユーザーは、番組で誰かが吹き替えで歌ったことにまったく触れていないことが、視聴者を欺き、テレサ・テンを尊重しないことであるとテレビ局を批判し、「これがハイテクといえるのか」と嘲笑した。

 中国のテレビ局が「テレサ・テン出演」と大々的に報じたことで、中国のファンだけでなく、台湾人の反感をも招いた。台湾のFTV News(民視新聞)は、テレサ・テンは過去に中国での公演を丁重に断ったことがあり、今回の中国の動きは強引で故人に無礼だと報じた。

 台湾のネットユーザーからは、「テレサ・テンは中国に行ったことがないだろう」、「こんな形で出演を強要されるのか。品がない」、「テレサ・テンは生前、一度も中国の地を踏んでいない! 中国でいくら彼女の真似をして記念品を作っても、それはすべて偽物なのだ」と叱責する声が多く寄せられた。

 香港作家の馮睎乾氏「台湾には吉兆、中国共産党には凶兆」

 香港のコラムニスト、馮睎乾氏はフェイスブックの投稿で、「テレサ・テンが大陸に現れて歌うこと」は台湾にとって吉兆であり、中国共産党にとっては凶兆であると述べた。

 馮氏は、1980年10月4日に台湾国立国父紀念館(こくりつこくふきねんかん)で行われたコンサートで、司会者とテレサ・テンの有名な会話を引用した。

 司会者、「中国大陸に行って歌うことについてどう思われますか」

 テレサ・テン、「新聞で、中国で歌うように誘われたと読んだのですが、誰もそれについて話してくれませんでした」

 司会者、「誰も正式に連絡を取っていないのですか」

 テレサ・テン、「そうです。もし私が中国で歌うなら、中国で歌うその日は、私たちの『三民主義』が中国で実行される日』になるでしょう」

 馮氏は、「三民主義が中国で実施されることだ、分かった。江蘇テレビのプロデューサーがテレサ・テンを中国大陸に呼び寄せたのは、いったい何がきっかけだったのだろうか。中国共産党を祝福するためか、それとも呪うためか」と書いた。

 彼はまた、テレサ・テンが1991年に金門の前線である馬山観測所で中国の人々に向けて放送したときの言葉を引用した。「親愛なる大陸同胞の皆さん、こんにちは、私はテレサ・テンです。私は今、金門島の放送室から、大陸沿岸の同胞の皆さんに向けて放送しています。今日は、自由祖国の最前線金門に立って、とても嬉しく幸せな気持ちでいっぱいです。そして、大陸同胞の皆さんも私たちと同じように民主主義と自由を享受できることを願っています(後略)」

 馮氏は、テレサ・テンが金門を「自由祖国の最前線」と呼んだが、彼女が口にした自由な祖国はどの国を指していたのか、台湾なのか、それとも中国なのか?中華民国政府(台湾)は1995年にテレサ・テンが中国共産党に参加せず、生涯中国に足を踏み入れることがなかったと賞賛した。今日の小粉紅(シャオフェンホン、注)の基準によれば、テレサ・テンは「台湾独立派」であっただけでなく、西側の民主主義を支持する「反共産主義者」でもあったのだ。しかし、大公報は、中国大陸に「台湾独立派」の歌手が現れたという凶兆を賞賛する論調で報じた。

 注:小粉紅(しょうふんこう、シャオフェンホン)とは、中国語では「ピンクちゃん」に等しく、「未熟な共産主義者」であるという意味で使われている。

(翻訳・藍彧)