三顧の礼の絵(北京・頤和園の回廊絵画)(ウィキペディア、パブリック・ドメイン)

庶民を重んじる劉備は無敵だ

 襄陽城の外に着いた後、劉備の甥である劉琮は門を開けずに拒否し、矢までも射りました。その時、魏延という武将が刃物で城門を警備する者を殺害し、大門を開け「劉陛下、早く兵隊を率いてお入りになり、ともに裏切り者を殺しましょう!」と歓迎しました。張飛が馬に乗って入ろうとすると、劉備に「ここにいる民を驚かしてはならない!」と止められました。その時、城内にいる守備軍隊は内部の混戦を引き起こしたため、劉備は「われはここの民を守るつもりであったが、逆に民を害してしまったので、もうここ襄陽に入ることはできない!」と連れて来た民を連れて、江陵へ向かいました。

 行軍して来た軍にとって城を取ろうとする際に、内部から応援者が出たことは幸運なことだと言えます。まして、背後には曹操の軍隊に追い駆けられている状況下で、慌てて逃げているところに、劉備はここの民のために当然奪えたはずの襄陽を取りませんでした。ここからしても劉備玄徳の「仁義の心」がよく分かります。

 劉備は襄陽に入場しなかったため、曹操の軍隊は流血なく襄陽に入りました。劉備の移動中の軍民は合わせると十数万人にも上り、大小の車両は数千台に上り、担いだり背負ったりしてきた荷物は数え切れないほどあります。このような状況下では1日にわずか十数里しか歩けません。しかし、曹操の部隊は迅速に追いかけて、すぐ後ろにまでやって来ています。劉備の将軍たちはみな「一時的に庶民を捨てて、先に行った方が無難です」と提案したところ、劉備は涙を流して言いました。「大きな事をやり遂げる者は人を大切にしなければならない。皆がわれに付き従っており、この者たちを見捨てるわけにはいかんぞ!」と諭しました。後世の人は詩作の中で劉備玄徳のことを大いに称賛しました。

 軍民の行動が緩慢なため、劉備は曹操側に襲われて殺害される可能性がありました。混乱の中で、劉備の夫人は息子を守るために、井戸に飛び降りて自害して果てました。張飛、趙子龍は最後まで血戦しました。妻や家臣までもがなんと「忠義の心」が厚いかったのでしょうか!

 劉備玄徳の「義」の現れは、また義兄弟を少しも疑いなく固く信じるところにもみられます。劉備、関羽、張飛は曹操の軍に敗れてバラバラになり、戦乱の中で劉備1人で青州まで逃げおおせ、袁紹に保護されました。関羽は劉備夫人を守り曹営に陥りました。その後、曹操と袁紹は紛争となり、劉備は袁紹のところで初めて曹営にいる関羽を見た時、心の中での第一念は「ありがたや、弟はやはり曹操のところで生きていますか!」と喜んだと言う。関羽が変節(へんせつ・節義を変えること。自分の信念を時流などにこびて変えること)したかどうかを少しも疑いませんでした。普通の人なら、このような状況下で、まったく疑心を抱かないような人物がいるでしょうか?

 劉備玄徳の「義」とは、また「三顧の礼」を尽くして、臥龍岡(がりょうこう)に住む諸葛亮に会いに三度も行って諸葛孔明を訪ねたと言います。劉備は二度、臥龍岡を訪ねても諸葛孔明に会うことがかなわず、心理的な打撃を受けたにも関わらず、少しも不平不満を言わず、次の年の春になって、吉日を選んで3日間斎戒(さいかい・神聖な仕事に従ったりする場合に、飲食や行動を慎んで、心身を清めること)し、沐浴し着替えをした上で、礼を尽くし、三度目に臥龍岡を訪ねてやっと会うことがかないました。これらの事からもわかるように、劉備の賢才と諸葛孔明を敬う誠実さは、姜子牙を招聘した周文王と匹敵するものであると言えます。

(おわり)