不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳・パブリック・ドメイン)

 今から2200年前の秦の時代の中国に、徐福という人物がいました。徐福は始皇帝から命を受け、童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷、日本へ旅立ったと『史記』に記載されています。

 『史記』は紀元前100年頃に完成され、中国における最も古くて学術価値の高い歴史書です。中に記載された記事や伝承の内容は、著者である司馬遷自身が現地を訪れ確認した上で収録している部分が非常に多く、とても信憑性の高いものだとされています。『史記』には「徐福または徐市(じょふつ)は斉(せい)の国琅邪(ろうや)の人なり。」と記載されていました。

 とは言え、長い間中国では徐福および不老不死の妙薬をめぐる徐福と始皇帝との出会いが、歴史的事実であるかどうかについてはあくまでも伝説の範疇に留まり、学問的に研究・評価の対象にならなかったという事実もありました。しかし、1982年、ある中国人学者が偶然に「徐福村」(現在の中国江蘇省かん楡県徐阜村)を発見しました。その信憑性を確かめるため、学者はプロジェクトチームを結成して本格的な調査に乗り出し、その結果、2000年の由緒正しい系図を持った徐福を先祖とする徐氏一門が、今なお中国全土に健在している事を判明し、この徐阜村は「徐福」の居た村であるという結論を導きだすことに至りました。

 当時、徐福の一団は中国を出るとき、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われていました。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされていますが、実は徐福が伝えたのではないかとも言われています。実際、徐福が日本のどこにたどり着いたかは不明ですが、「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれていました。日本でも、中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に多く存在しています。

 任熊『列仙酒牌』より 船に乗る徐福(パブリック・ドメイン)

 もちろん、徐福という人物の存在を証明する物は何もありませんし、徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがありません。しかし、日本にはあまりにも多くの徐福に関する伝説があるため、徐福が日本の国作りに深く関わった人物に違いないと思えて仕方ありません。

 興味がある人はぜひとも日本各地の徐福伝説地を訪ねてみたらいかがでしょうか? きっと新しい発見があるでしょう。

(一心)