赤壁の戦い時詩を詠んでいる曹操(北京・頤和園の回廊絵画)(Shizhao, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 三国時代、曹操が袁紹を破った官渡の戦いは、弱国が強国に勝利した奇跡的な戦いでした。その中の策士である許攸(きょゆう)の功績があったからこそだといえます。

 当時、許攸は袁紹を離れ、曹操の支配下に入り、袁紹の穀物倉庫を奇襲するという提案を出したことで、大成功を収めたのでした。その後、またも漳河の水を使い冀州に灌水する計略をめぐらし、曹操がその策略を取り入れたことにより、戦局を逆転させ勝利を得たのでした。許攸がいなければ、曹操は冀州城へ足を踏み入れることはできなかったともいえます。

 曹操と袁紹の大戦で、勝利を分けたのは、許攸が提案した策略が鍵を握り、たしかに彼の功労はなくてはならないものでした。智謀と才能がずば抜けていたにもかかわらず、なぜ許攸は最終的に名将・許褚の手によって命を失ったのでしょうか?

裸足で許攸を出迎える曹操(ネットより)

 『三国志演義』の第三十三回ではこのような一節があります。

 曹操は冀州を平定した後、大勢の将軍たちを率いて冀州城へ入りました。城に入ろうとすると、突然、許攸は前方に向けて馬を放ち、馬の鞭で城を指して「もし俺がいなければ、阿瞞(曹操の幼名)はどうやってこの城門に入ることができたか」と、曹操を「阿瞞」と呼び捨てにしたのです。

 曹操は度量が広く、人に寛容だったため、それを聞いても怒ることなく、一笑に付しました。しかしながら、曹操の身の回りにいる将校は、聞き捨てならないと、腹が立ってどうにも我慢ならないと思っていました。

 ある日、許褚は馬に乗って東門に入ろうとすると、あいにく真正面から許攸と遭遇してしまいました。許攸は許褚に、「俺がいなければ、どうやってこの門に入れたと思っているのか」と言いました。

 許褚はすぐさま激怒し、「われら多くの将校は、兵士たちを率いて血みどろになって奮戦したからこそ、城を攻略することができたのだ。お前は一人の策士の分際で、よくもそんなことが言えたものだ」と言い返しました。

 許攸は「あんたたちのような教養の無い者たちなどに、話す価値もないわ」と、甚だしく傲慢に言いました。

 許褚はあまりの怒りで、大事な宝剣を抜いて許攸を斬り殺してしまいました。その後、曹操に面会しに行き、殺害した罪をありのまま自供しました。

清代の書物に描かれた許褚(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 曹操は許攸の死を深く惜しみ、ひどく許褚を責めました。「私と許攸は旧知の間柄だったのだ。だから彼の話しもちょっとした冗談ばかりだったのに。お前はどうして彼を殺してしまったのだ」と許褚を咎めた後、許攸を手厚く葬らせました。

 許攸が曹操の兵営に加わった当初、曹操は喜んで「跣足(せんそく)の出迎え」をし、足袋さえ履かず素足のまま大急ぎで出迎えたのでした。「跣足の出迎え」の厚遇も、後世の帝王が人材を大事にする見本でした。しかしながら、許攸の功に甘えた傲慢さは、曹操を幼名で呼び捨てにした事からもうかがい知れます。

 『道徳経』で、老子は「自ら伐(ほこ)る者は功無く」と語りました。その意味は、自分を驕るものには功労もなくなるということです。あらゆる成功には、天運の恵み、地理や環境の利便、そして他人の協力という「天・地・人」の三才を備えているからです。許攸が提案する奇襲は、その時の天運の恵みと、全軍の兵士の協力と奮戦なしでは実現するはずもありません。自分だけの功労を驕る許攸は、天運の恵みと他人の協力を無視するという、天道と人道に背くことをしてしまいました。

 悲運の終焉を迎えた許攸。『三国志演義』は彼の死をもって、世の中に戒めを残しているのでしょう。

(文・洪熙/翻訳・夜香木)