金の太宗完顔呉乞買(Slb nsk / Wikimedia Commons CC BY-SA 3.0

 中国伝統社会では、皇帝の地位は高いのですが、勝手気ままなことをすることができたわけではなく、規則を守らなければなりませんでした。皇帝は天下の万民の模範となるべき人であったため、自分自身が規則を守らなければ、臣民に法律を守らせることもままなりません。社会全体の秩序も乱れ始めるかもしれません。

 皇帝が過ちを犯したときには、すぐ言官(君主の道徳や政治の過失を戒める官職)から「教育」を受けました。そして同時に史官(古代中国で歴史の記録をつかさどる官職)によって歴史書に記録されます。これはまだたいしたことではありません。歴史上には過ちを犯したため、皇帝の座から下されお尻を叩かれた皇帝がいました。彼は金王朝の第二代皇帝・太宗完顔呉乞買(わんやんうきまい)(1075―1135)です。

皇帝の誓い

 完顔呉乞買は金の太祖皇帝・完顔阿骨打(わんやんあぐだ)の弟です。兄が在位していた時、諸大臣との間で「国庫にある財産は戦時にしか使わない」という誓いを建てました。もし誓いを破った人間がいれば、たとえ完顔阿骨打本人であったとしても二十回お尻を叩かれる処罰を受けると決めました。

 完顔阿骨打が亡くなると完顔呉乞買は皇帝の位を受け継ぎました。

 完顔呉乞買は非常に倹約な皇帝でした。皇帝の家も柳と楡で作った壁に囲まれていただけでした。庶民が放し飼いしている豚や羊などは皇帝の家に自由行ったり来たりして通り過ぎることもありました。重要な軍事会議以外の時は、守備の兵士もいませんでした。

大臣に責められる皇帝

 書物『燕雲録』の中では、宋王朝の王室貴族・趙子砥は次のような事を記しています。完顔呉乞買は住むところや着るものなどは気にかけませんでしたが、食事が質素すぎたため、体が大きく逞しい彼は食べ物に対する欲望をこらえていました。ついにある日の夜、完顔呉乞買はこっそりと倉庫の扉を開けて、多くの食物を食べました。

 間もなく、この事は丞相・完顔宗翰の耳に伝わりました。完顔宗翰は金の猛将で、完顔阿骨打と共に遼を討伐した人物です。完顔宗翰は国庫を点検した時にこの事を察知し、諸大臣に伝えました。翌朝、大臣たちは面と向かってこのことを言い出したため、皇帝は認めざるを得ませんでした。

お尻を叩かれた皇帝

 それから完顔宗翰は大臣たちと相談し、先帝の誓約によって現在の皇帝を処罰することにしました。完顔呉乞買は力が強く、一人で熊と戦え、虎をも倒せました。さらに皇帝でもありました。しかし誓約があったため、金の太宗皇帝・完顔呉乞買は罰を受けるしかありませんでした。こうして完顔呉乞買は皇帝でありながら、お尻を棒で二十回たたかれました。

 処罰が終わると大臣たちは皇帝を支えて椅子に座らせました。そして大臣たちはみな土下座して謝罪しました。完顔呉乞買も致し方なく痛みを耐えてお酒を飲んで自分を慰めました。そして大臣たちの罪を許しました。

(翻訳・宛漣音)