『寒江独釣図』(宋・馬遠)(パブリック・ドメイン)

 「余白」、または「余玉(よぎょく)」は、中国の絵画の表現方法の一つです。文字通り、余った空白部分、もしくは空白部分を余らすのです。余白とは、ただの空白ではなく、物体のある部分より勝り、余白のところこそが皆妙境(みょうきょう)になるのです。

 南宋時代の画家・馬遠(バ・エン)の多くの作品には、物体が絵の一角にしかなく、他の部分は全て余白になっています。『寒江独釣図(かんこうどくちょうず)』では、烟波(えんぱ)に浮かぶ小舟の上に、一人の漁夫が釣りをしているのが描かれています。絵の上には一滴の水も描かれていませんが、絵全体が大きな水の中にあるような雰囲気を醸し出し、小さな絵に大きな世界が表されています。

『華灯侍宴図』一部(宋・馬遠)(パブリック・ドメイン)

 縦幅が長い『華灯侍宴図(けとうじえんず)』で、馬遠は景色を3つの部分に分けており、1つは写実の部分、もう1つは朦朧とした景色、そして最後は完全な余白。余白がなければ、この絵は情緒に欠けるでしょう。山頂と山の中腹あたりの余白は、浮雲や霧として、そして麓あたりの余白は、広大な水域や砂塵として感じることができます。一枚の絵の中でも、位置の違いにより、様々な解釈ができます。

 中国絵画では、余白を使い、画面に活気のある空気感を吹き込むことができるそうです。余白は「気」を作り出し、その「気」が画面上の空間を繋げ、生き生きとそして決して騒がしくない空気感を作り、まるで呼吸しているような画面を見せます。この手法がいわゆる「気韻生動(きいんせいどう)」です。

 中国の絵画の手法を「散点透視」と結論づける人もいますが、それは西洋絵画の論理で中国絵画を解釈しようとしています。しかし、中国絵画では、外形を写す「写形(しゃけい)」を主とせず、画家の精神または対象の本質を表現する「写意(しゃい)」を重視するため、「透視」の概念は最初から存在せず、「対角線」や「対角構図」などの定義で分析することができません。中国の絵画を鑑賞するには、別の鑑賞法が必要です。

 また、画面の右下の方向は、人間が画面を見る時に、最後に視線を向ける位置です。右下と言う方角は、『易経』では「亥」の位置と呼ばれ、漢字を「一枚の絵」として見れば、どんなに複雑な漢字でも、最後の一画は右もしくは右下の方向に書くものが多いのです。これはいわゆる「収まるところ」であり、「気」もこの位置で収束します。

『楓鷹雉鶏図』(宋・李迪)(パブリック・ドメイン)

 同じく南宋時代の画家・李迪(り・てき)の『楓鷹雉鶏図』では、左上の方向にいる鷹に睨まれている鶏は、画面の右下、「亥」の方向に逃げていきます。画面全体が、「気」の流れる方向を表現し、まるで動いているかのような一幕を見せ、見る人に緊張感を与えます。

 さらに付け加えると、中国絵画における余白は、伝統的な宇宙観を表現しているとも言えます。「白」とは「無」や「虚」の意味を持ち合わせるため、絵画に応用すると、あらゆる可能性を生み出す「虚」の景色になります。「有」と「無」の間に、「実在」する景色と「虚無」を意味する余白が互いに引き立てあい、太極図の中の陰と陽の関係性が現れているようです。このように見ると、一枚の絵画の中にも、森羅万象の栄枯盛衰が見えるのです。

(文・孫書香/翻訳・常夏)