2026年8月下旬のある早朝、ミラノ·マルペンサ国際空港の入国ロビーで、浙江省出身の40代の中国人女性が、8歳の娘とともに入国しようとしていました。ところが、入国審査の窓口でパスポートを差し出した瞬間、端末の画面に警告が表示されました。映画のような騒がしい追跡劇が繰り広げられたわけではありません。厳しい表情を浮かべたイタリア国家警察の警察官と、対テロ捜査部門のDIGOSの捜査官数人が静かに近づき、女性を娘から引き離しました。

 捜査官はその場で、イタリア内務省が発令した特別行政命令を読み上げました。法律に基づいてEU長期滞在許可、いわゆる永住権を取り消し、即日国外退去とするというものでした。さらに、今後15年間、イタリアおよびシェンゲン協定加盟国への入国を一切禁止するという内容でした。

 1年前、イタリア警察が一斉摘発に乗り出した際、女性は慌てて航空券を購入し、ほとぼりが冷めるのを待つために中国へ逃げ帰っていました。それから1年が過ぎ、もう大丈夫だろうと思ったのでしょう。娘を連れてイタリアに戻り、ミラノでの暮らしを再開しようとしていたのです。

 この女性は、帰国便に乗せられるその瞬間まで、理解できなかったのかもしれません。ヨーロッパで商売を営む中国人家庭の主婦として、安定した暮らしを送っていた自分が、なぜ国際的な対テロ情報機関のブラックリストに載り、国境を越えて活動する危険人物と見なされるようになったのか、と。

 イタリアの有力紙「イル·フォリオ」の続報や関係者の証言によると、この女性は普段、ミラノにある中国人商工団体の関係者らと交流していました。きっかけは、WeChatの同郷者グループでの何気ないやり取りでした。「祖国のために働こう」と愛国心に訴え、中国共産党への協力を日頃から呼びかけていた、在外中国人社会で顔の利く人物が、ひそかにある「裏の仕事」を持ちかけたのです。仕事内容は、現地に住む中国人1人を尾行·監視して隠し撮りし、自宅の番地や、よく行くスーパーへの経路、普段接触する人物を記録するというものでした。仕事は8時間で、報酬は当日払いの1万7600円(100ユーロ)でした。

 ミラノでは、小さな中華料理店の従業員や縫製工場で糸の始末をする作業員でも、1日懸命に働けば約1万4000円から1万7600円(80~100ユーロ)ほど稼げます。この女性の家庭は、生活に困っていたわけではありません。夫婦はイタリアで10年以上働き、合法的に得ていた収入は、2人合わせて月に約88万円(5000ユーロ)ありました。3人の子どもは、現地で質の高い無料の公教育や公的医療制度の恩恵を受けていました。それでも、目の前の1万7600円(100ユーロ)というわずかな利益と、WeChatのグループに漂う「国のために、海外で中国共産党を批判する連中を懲らしめる」という安っぽい熱狂に動かされ、女性はためらいもなく仕事を引き受けたのです。

 女性が尾行を命じられた「標的」は、ほかでもありません。近年、SNSのX(旧ツイッター)で、北京の治安維持当局の幹部を悩ませ続けてきた著名な反体制ブロガー、「李老師不是你老師」でした。本名は李穎(りえい)です。

 2022年末、中国の内外に広がった「白紙運動」以降、李穎はたった1人で、中国の情報封鎖に風穴を開ける重要な情報の中継役となりました。中国国内では関連情報が削除され、閲覧できなくなった庶民の抗議活動や集団抗議事件、建設が止まったマンションの購入者による権利擁護運動、銀行の経営破綻をめぐる悲劇など、無数の出来事が彼のアカウントを通じていち早く世界に伝えられてきました。しかし、中国共産党の国家安全機関や統一戦線工作を担う組織にとって、彼は何としても取り除きたい「目の上のたんこぶ」になったのです。

 李穎のイタリアでの行動や住所、交友関係を把握するため、中国共産党の情報機関は、費用がかさみ、発覚すれば深刻な外交問題にもなりかねない専門の工作員を使う方法から、「情報収集の下請け化」へと目を向けました。いわば、中国の通販サイト「タオバオ」で商品を注文するように、海外での情報収集を発注する仕組みです。長年にわたって浸透してきた海外の同郷会や中国人商工団体、さらには中国語の情報提供を掲げる在外中国人向けのポータルサイトなどを通じ、情報収集や現地の下見、言葉による嫌がらせといった表に出せない仕事を、小金に目がくらんだり、愛国心にのぼせ上がったりした一般の在外中国人や、「小粉紅」と呼ばれる熱狂的な中国共産党支持者に、何段階にも分けて下請けに出していたのです。

 実際、イタリア警察が動いたのは、これが初めてではありません。今年3月にはすでに、李穎を標的とした国境を越える弾圧に関与した疑いで、別の中国人8人がイタリア政府によって国外退去となっていました。その中には、現地の中華料理店の経営者、商工団体のメンバー、主婦などが含まれており、いずれも背後の同じ指揮系統から遠隔で指示を受けていたとされています。

 最近ネット上に出回った情報によると、この浙江省出身の女性が一家で海外に移住し、ヨーロッパで永住権を取得するために、高齢の両親は当時、全財産をつぎ込み、親戚中から借金をして、多額の負債まで背負ったといいます。ところが今、女性は15年間、イタリアを含むシェンゲン協定加盟国に入れなくなり、3人の幼い子どもを育てる家族の暮らしも一変したとされています。夫も日々の生活が立ち行かない状況に追い込まれているといいます。親族や故郷の近所の人々にとっても、一族の誇りだった「海外で暮らす華僑」は、不運なスパイへと転落してしまいました。さらに女性を落胆させたのは、かつてミラノの酒席で仕事を割り振った商工団体の幹部が、彼女をグループから追い出し、連絡先までブロックしたことでした。

 生活のために、女性は故郷で仕事を求めて奔走し、地元の統一戦線工作を担当する部門にも助けを求めたといいます。最終的に見つかったのは、故郷の町で、地域を区画ごとに管理する末端の「社区グリッド管理員」の仕事でした。月給は5万円(2200元)です。ミラノで夫婦合わせて月に88万円(5000ユーロ)を得ていた女性が、今では月給5万円(2200元)で、しかも給与の支払いがしばしば滞る仕事に就いているとされています。わずか1万7600円(100ユーロ)の代償は、あまりにも大きかったのです。

 一見すると信じがたいこのミラノでの強制送還事件は、中国共産党による海外浸透工作の、最も残酷で醜い一面をあらわにしています。SNSでは、多くの人がその本質を突くようなコメントを寄せています。「小粉紅の最大の悲劇は、自分の暮らしで精いっぱいなのに、中南海の支配者のつもりで国の行く末を心配することだ。自由な世界では、誰からも嫌われる密告者になる。独裁権力から見れば、使い終われば捨てるだけの、ぼろ雑巾にすぎない」

 かつてスパイといえば、専門の訓練を受け、高い報酬を得て、外交特権に守られた外交官や職業的な工作員を思い浮かべたものでした。しかし、今日の中国共産党の情報機関は、国境を越えた弾圧を、格安通販サイト「拼多多(ピンドゥオドゥオ)」さながらの「格安の情報収集ビジネス」へと変えてしまいました。数十ユーロから100ユーロ程度のわずかな報酬を餌に、法治への理解が乏しく、中国共産党の本質も知らない海外の一般の中国人を、監視役に仕立て上げているのです。

 そして最後に逮捕され、裁判にかけられ、国外に追放されるのは、数十ユーロのために良心を売った、こうした末端の「使い捨ての駒」ばかりなのです。

(翻訳・藍彧)