宋仁宗の像(中華民國国立故宮博物院 台北市 パブリック・ドメイン)

 『宋史』にはこのような記述があります。昔、宋の時代に大きな疫病が発生し、多くの民衆が伝染しました。当時の皇帝・宋仁宗は、役人たちを処罰するでもなく、歌い踊りで太平を祝い疫病を見て見ぬふりをすることもありませんでした。代わりに、宋仁宗は皇帝の礼服=龍袍を脱ぎ、「正殿を暫く離れ、朝賀を受けない」こととし、天子の使命を全うできなかった事に対して真摯に懺悔の意を表明し、食事を減らした。そして執政するときに、人道を反しているか、天道に従っているかを誠実に反省しました。

 ある日、疫病の対応を検討する際、宋仁宗は真っ先に貧困層の事を思いました。宋仁宗は、皇室の医者に医術の優れる者を探させ、貧困層のために、各県の役所に診療と投薬の場所を開設しました。

 闘病中の民衆を助けるために、宋仁宗は皇室の医者に薬剤の研究と製造を命令しました。また、宮中の大臣に、皇室にある高級の生薬を民衆に与えるよう命令しました。宮中の大臣は二つの犀角を持ち出し、薬用にできるかどうかを鑑定させました。その中の一つの犀角は、とても珍しい「通天犀」の犀角でした。大臣の李舜舉は、通天犀の犀角の希少価値を知っているため、宋仁宗のために残しておこうと進言しました。

 しかし、宋仁宗は喜ばずに「私は百姓を蔑み、珍物を崇める人だとでも思っているのか?」と言いながら、通天犀の犀角を砕き、薬剤として使用させ、民衆の治療に使わせました。

 民衆を心掛ける宋の仁宗皇帝の仁政を受け、多くの官吏・役人たちは鼓舞され、懸命に働きました。やがて疫病が去り、京も安全になったとのことです。

『清明上河図』は宋王朝時代の漢方の状況を反映している。絵の中には、接骨医の隣に薬屋があり、看板には「本堂法制應症薬剤」と表示されている。(清院本『清明上河図』一部、 パブリック・ドメイン)

出典:『宋史』

(文・智恒/翻訳・常夏)