2026年4月初め、突然の強風と砂嵐が再び中国北部を襲いました。4月3日、北京の空は黄ばんだ砂の幕に覆われ、視界ははっきりと悪化しました。まるで街全体にフィルターがかかったかのような光景でした。気象観測によると、この日、局地的には最大風速が11級に達し、北京北西部ではPM10濃度が一時、1立方メートルあたり368マイクログラムまで急上昇しました。空気の汚染レベルは5級の重度汚染基準に達しました。強風に巻き上げられた砂は容赦なく街中に入り込み、通行人たちは顔を覆いながら足早に歩いていました。SNSでは「また土を食べる日が来た」といった冗談が一気に広がり、この異常気象を象徴する言葉となりました。

 この極端な天候は、SNSでも大きな話題となりました。

 「スマホを取り出して30秒も経たないうちに、もう表面に砂ぼこりが積もった」

 「良い知らせは風がスモッグを吹き飛ばしたこと、悪い知らせはみんなこれから土を食べることだ」

 今回の砂嵐は単発の出来事ではありません。内モンゴル自治区オルドスから山西省大同市、河北省張家口にかけて、各地でPM10濃度が危険な水準まで上昇し、一部地域では1立方メートルあたり500マイクログラムを超え、深刻な汚染レベルに達しました。

 実際のところ、これは今年に入ってから北京を何度も襲った砂塵のうちの一回にすぎません。すでに1月8日には、寒気の影響で北京は今年初めて砂嵐の青色警報を発表していました。2月下旬には、さらに強い砂塵が再び襲い、PM10濃度は一時、観測の上限を突破しました。4月に入り、清明節の連休前後になると寒気の南下が頻繁になり、2度の砂塵がほとんど間を置かずに続けて発生しました。砂嵐は華北だけでなく、そのまま南へ広がり、黄淮、江淮、さらには四川盆地にまで達しました。中国各地は強い北西風に吹かれながら、再び黄砂との苦しい戦いを強いられたのです。

 北京で春になるたび、これほど高い頻度で砂塵に包囲される最大の理由は、その特殊な地理的位置と地形にあります。地図を見ると、北京は華北平原の最北端に位置し、西には太行山脈、北には燕山山脈があります。この地形は全体として見ると、南東に向かって口を開いた「簸箕(ちりとり)」のような形を作っています。山脈はある程度、低い高度の砂塵を遮ることはできますが、北京はちょうど東アジアの季節風地帯で、寒気が南下する主な通り道の上にあります。北京の北西約180キロの場所には、すでに内モンゴルのフンシャンダク砂地があり、そのさらに先にはクブチ砂漠や、モンゴル中南部に広がる広大な荒漠地帯があります。これらの地域こそが、北京にとって最も直接的な砂塵の発生源となる風上地帯です。

 春になると気温が上がって氷や雪が解ける一方で、地表の植生はまだ十分に青くなっていません。そこへモンゴル低気圧が活発化すると、乾いて緩んだ土壌がまるで巨大な換気扇に吸い上げられるように高空へ巻き上げられます。強い砂嵐はしばしば数千メートルの高さにまで達します。平均標高が1000メートル前後しかない燕山や太行山では、とてもそれを防ぎきれません。だからこそ、広範囲かつ高濃度の砂塵が、そのまま北京まで一気に到達してしまうのです。

 北京の砂嵐は、現代になって突然現れたものではありません。実は1000年以上も前から続いてきた現象です。最も古い記録は、西暦440年の北魏の時代にまでさかのぼります。当時すでに、強い砂嵐によって家屋が壊れ、人が命を落としたという記述が残されています。その後も北魏、遼、金、さらには元の時代の史書には、「砂が舞い石が飛ぶ」「昼間なのに空が暗くなる」といった描写がたびたび登場します。元代の文献には、「幽州・燕の地はもともと砂漠性の土地であり、風が吹けば砂塵が空いっぱいに広がる」とまで記されており、当時の人々がすでにこの地域の自然条件をはっきり理解していたことがうかがえます。

 明の時代に入ると、北京の砂塵はさらに頻繁に記録されるようになります。『明実録』には、「土ぼこりが空を覆った」「強風とともに砂が舞い上がった」といった記述が大量に残されています。276年続いた明代の歴史の中で、はっきりした砂塵被害が確認された年は95年にも及び、その多くが春に集中していました。統計によれば、中国の旧暦1月から4月までに記録された砂塵は全体の8割を超えており、この現象が非常に強い季節性を持っていることが分かります。年によっては、砂嵐が建物を壊し、人命被害まで出すほど深刻な被害をもたらしたこともありました。

 清の時代から近代にかけても、北京の砂塵の記録は途切れることなく続いています。『翁同龢日記(おうどうわにっき)』には、清朝末期の北京では、年間平均でおよそ11日ほど砂塵の日があったと記されています。

 20世紀に入ると、気象観測のデータから1950年代から1960年代にかけてが砂嵐の多発期だったことが分かっています。その後はいったん減少しましたが、21世紀の初めに入って再び強く増加しました。とくに2002年に発生した大規模な砂嵐は、記録に残る中でも最も深刻なものの一つとされ、影響範囲は100万平方キロメートルを超え、日本や韓国にまで及びました。

 このような厳しい自然環境にありながら、なぜ北京は長い間、中国の政治の中心であり続けてきたのでしょうか。その背景には、歴史と地政学に基づく明確な理由があります。

 明の永楽帝・朱棣が、都を南京から北京へ移した決断は、中国史の中でも極めて重要な転換点でした。朱棣はもともと燕王として、北京およびその周辺を拠点としており、この地域に強固な軍事力と政治基盤を築いていました。一方で南京は前王朝の都ではあったものの、彼自身の権力基盤は弱く、安定した統治には不安が残っていました。

 さらに重要だったのは、当時の明王朝が北方の遊牧民族という大きな脅威に直面していたことです。朱棣は、将軍に防衛を任せるよりも、自らが北方に拠点を置いて直接指揮を執る方が、軍権を持つ者の反乱を防ぐうえでも有効だと判断しました。つまり、北京は単なる政治の中心ではなく、最前線の防衛拠点でもあったのです。

 清の時代に入っても、この選択は引き継がれます。順治帝が北京を都としたのも、極めて現実的な理由からでした。まず、北京を掌握することは明王朝の正統性を受け継ぐ象徴となり、漢民族の官僚層を安定させる効果がありました。また、北京にはすでに整備された宮殿や行政機構が存在しており、国家運営を迅速に引き継ぐことができました。さらに、北京は清王朝の発祥地にも比較的近く、万が一中原で情勢が不安定になった場合でも、関外へ退くという選択肢を残していたのです。

 毛沢東が首都を北京に定めたのは、政治と国際環境の両面を考慮した結果でした。北京は中国北部に位置し、中国共産党にとって重要な同盟相手だったソ連やモンゴルに近く、安全面で有利でした。さらに北京は、長い歴史を持つ古都として強い政治的象徴性を備えており、新政権の正統性を打ち出すうえでも都合がよかったのです。

(翻訳・藍彧)