春の暖かな日差しのもと、花々が咲き誇る季節となりました。しかし、人々が春の陽気を満喫する一方で、景観を損ねる一部の心ない行為が、繊細な樹木に取り返しのつかないダメージを与えてしまうことがあります。先日、上海で一人の女性が写真撮影のために桜の木に登り、その結果、木が根こそぎ倒れるという出来事がありました。この件はインターネット上で瞬く間に拡散され、大きな議論を呼んでいます。
4月6日にネット上で出回った動画によると、上海の顧村公園近くにある無料開放された緑地帯で、満開の桜の木のそばに1台の電動バイクが停められていました。一人の女性が公共のルールを無視して桜の幹に登り、ポーズをとり、そばにいる同伴者がその様子を撮影していたのです。残念なことに、華奢な桜の木は大人の体重に耐え切れませんでした。根が深刻なダメージを受け、最終的には重みに耐えかねて地面に倒れ込んでしまいました。この女性は事後、何の対処もすることなく、同伴者とともにすぐさまバイクに乗って現場から立ち去ったとのことです。
失われたのは、美しい公共の景観だけではなく、長い年月をかけて育まれてきた一つの命でもあります。公園側の説明によると、被害に遭ったこのソメイヨシノは樹齢20年以上で、幹の直径は18センチから20センチに達していました。20年もの風雨に耐えて成長し、ようやく今日の満開の花を咲かせたにもかかわらず、わずか数秒の身勝手な行動によって全てが水の泡となってしまったのです。この品種の桜は根が浅く脆いため、今回のように根こそぎ倒されたことは致命的な打撃となります。公園側が植え直しを試みるものの、生き残る望みは極めて薄いとのことです。なお、当事者の女性はその後警察に特定され、自身の行為を認めて謝罪し、賠償を約束しています。
しかし、この事件が引き起こした波紋は広がり続けています。それはまるで鏡のように、一部の人々の公共マナーに対する意識の低さを映し出しただけでなく、より深いレベルの社会的な問題を浮き彫りにしました。現代の公共空間において、なぜ他者への配慮に欠ける行動をとってしまう人々が存在するのでしょうか。
これは決して、SNS映えを狙う歪んだ文化だけが原因とは言えません。さらに視野を広げてみると、桜吹雪を起こそうとむやみに木を揺すったり、写真を撮るために花の枝を引っ張ったり、公共の施設を占拠したりする行為は、特定の年代において顕著に見られる傾向があります。これは特定のグループを非難するためではなく、中国社会の歴史的な背景や構造の変化が関係していると考えられます。
第一の背景として挙げられるのは、伝統的な地縁社会から現代の都市社会へと移行する過程での不適応です。中国は古くから、血縁や地縁といった「身内」との関係性を非常に重んじる社会でした。人々の道徳観や責任感は、親戚や近所の人といった顔見知りの間でのみ強く働く傾向があります。しかし、都市の公園のような、互いに見知らぬ人たちが行き交う現代の公共空間では、そうした従来の道徳的な抑止力が働きにくくなります。一部の人々の意識の中では、「公共の場」というものが「皆で共有し、大切にする場所」ではなく、「誰のものでもない場所」として認識されてしまうことがあるようです。誰のものでもないのであれば、自分の好きにしても構わない。そこには、顔見知りのコミュニティで「世間体」を失うというリスクがないからです。
第二に、このような行為の背後には、厳しい時代を生き抜くための記憶が影響しているという見方もあります。多くの年配の世代が育った背景が、物資が極端に不足していた時代であったことを理解する必要があります。あらゆる生活必需品を得るために配給切符に頼り、行列に並び、時には奪い合わなければならなかった時代において、物資の確保は自身と家族が生き残るために不可避な行動でした。衣食の確保すら難しい状況下では、他者への思いやりや譲り合いの精神を気に掛ける余裕などありません。満員バスに押し入ったり、食糧を確保したりする日常の中で、少しでも遠慮や躊躇をすれば、希少な自らの取り分を失うことを意味したのです。長きにわたって生存の危機に直面していた環境が、資源に対する不安感をその世代の心に深く刻み込んでいるのでしょう。
今日、中国は急速な経済発展を遂げ、物質的な生活はすでに豊かになり、生存の危機はとうの昔に解消されました。しかし、心に染み込んだ不安感や独占欲を簡単に拭い去ることはできません。美しい景色を前にした時、当時の感覚が依然として無意識のうちに作動し、資源の奪い合いと同じ心理状態に陥ってしまうのかもしれません。桜が綺麗に咲いているなら、自分が一番近くで長く独占したい。個人の撮影欲求を満たすためなら、木の枝が折れようが、後ろで観賞している人に迷惑がかかろうが気に留めないのでしょう。彼らの潜在意識の中では、美しい風景でさえも、今すぐ自分の手にしなければならない希少な資源となっているようです。
猛烈な勢いで美しい公園が整備され、貴重な木々が植えられていく一方で、人々の心理的な変化がそれに追いついていないのが現状です。一部の人々は当時の感覚のままで、現代社会の公共資源に接しています。彼らの目には、花や草木は畏敬の念を抱くべき生命でも、大衆が楽しむための公共の財産でもなく、ただ自分の写真の中の無料の小道具として映っているのかもしれません。他者への配慮を欠いたまま美しい写真を切り取ろうとすること自体が、なんとも皮肉な結果を生んでいます。
(翻訳・吉原木子)
