台北の北に「草山(ツァオスァン)」という山があります。蒋介石は台湾へ退守した後、この地を官邸の所在地に選び、「陽明山」と改称しました。麓に広がる公園もまた「陽明山公園」と改められました。
蒋介石は、明代の儒学者・王陽明を深く崇拝していました。彼はかつて「王陽明の『知行合一』の哲学は、18歳の時に顧葆性先生の著書を手にして以来、50年にわたり幾度となく読み込んできた。『伝習録』と『大学問』という二つの小冊子は、百読しても飽きることがなく、常に私の心を捉えて離さなかった」と語っています。
蒋介石は、中国伝統文化の精髄を台湾の都市の街路にも刻み込みました。台北市内を東西に走る主要幹線道路は、北から南へ順に、四書五経に由来する「忠孝」「仁愛」「信義」「和平」と命名されました。他にも「四維」「八徳」など、儒教的価値観を示す地名が今も息づいています。
こうして見ると、蒋介石と中国伝統文化がいかに分かちがたく結びついていたかがわかります。中年以降にキリスト教へ帰依したものの、彼の思想の根幹は常に、中国の儒教の道を伝える系統「道統(どうとう)」にありました。彼は生涯を通じ、伝統文化の提唱に力を尽くし、儒家の道統を継承することを自らの天命としていたのです。
中共の「文革」に対抗した「文化復興運動」
1966年、毛沢東は中国大陸で「文化大革命(文革)」および「破四旧運動」を発動し、壊滅的な打撃を与えました。これとほぼ同時期、蒋介石は台湾で「中華文化復興運動」を開始します。これは、共産党による文化破壊から中華の精神を守り抜こうとする、一大思想文化運動でした。
1966年11月に孫科、王雲五、陳立夫、陳啓天、孔徳成(孔子の直系子孫)ら1,500人の連名により、孫文(孫中山)の誕生日である11月12日を「中華文化復興節」とすることが提唱されました。翌1967年7月には、蒋介石自らが会長を務める「中華文化復興運動推行委員会(略称「文復会」)」が設立され、台湾内外で文化防衛の火蓋が切られたのです。
1966年10月10日、中華民国55周年国慶日、および辛亥革命記念日に、蒋介石は『全国同胞に告ぐ書』の中で、次のように述べました。
「今年の元旦に中正(蒋介石)は厳重に警告した。奸匪(中国共産党政権)は今、『毛沢東思想』の突出した政治と義和団①のような人民戦争を以て、暴戻恣睢(ぼうれいしき)とした恐怖の時代を作り出そうとしている!誰もが知るように、民族の存亡は伝統文化の優劣にかかっている。もし優れた文化が一度滅びれば、その民族精神もともに失われ、民族全体も名存実亡(めいそんじつぼう)となるだろう!我が中華民族は広く久しく、五千年を経ても衰えないのは、その文化が絶えずに永遠に保持され、時代とともに進歩し、より輝かしく盛大になり、久しくしてますます新たになるからである……。今日の毛賊(毛沢東)の紅衛兵は、我が国五千年の伝統を根絶やしにするものだ」「我々が三民主義を実現し、歴史と文化を維持し、人権と自由を守り、反共復国戦争で全面勝利を収めてからこそ、世界各国と平等となり、ともに平和と安全を守る時が来る!これが我々軍民一体の揺るぎない信念であり、辛亥革命(の精神)を継承し、我が民族の文化を守る責任である」

具体的な文化保存と教育政策
文復会の創設当初、蒋介石は自ら陣頭指揮を執り、学術・芸術・科学など多岐にわたる委員会を組織しました。国民生活輔導委員会、文芸研究促進委員会、中国科学と文明を編訳する委員会、中国科学技術と発明を奨励する委員会、国劇推進委員会など、多数の専門機関と委員会はそれぞれの職責を果たし、文化復興の具体的な仕事を執行しました。
例えば、「学術出版促進委員会」は、『周易今注今訳』、『老子今注今訳』、『詩経今注今訳』、『孟子今注今訳』、『白話史記』、『白話資治通鑑』など、『周易』『老子』『詩経』といった古典典籍の現代語訳(今注今訳)を次々と出版し、若い世代への普及を図りました。
「国民生活輔導委員会」は「国民生活須知(国民の暮らしにおいて知るべきこと)」を制定し、人々の衣食住など、生活の基本要素に規範を提示し、礼節ある近代市民の育成を目指しました。改訂された「国民礼儀範例」は1970年に正式に頒布され、青年を育成する目標を全社会の生活の理想に拡張しました。
教育面においても、蒋介石は「国文は一国の文化の根基であり、文科・理科を問わず学生は特に注意すべきである」と指示し、歴史と国文(国語)を極めて重視しました。台湾光復の後、民族認識と民族自信を強化するため、小中学校では「民族教育」と「道徳教育」が柱となり、国語や歴史の授業は全課程の半分を占めるほどでした。『生活と倫理』、『中国文化基本教材』などの開設が必須となり、学生の古文の訓練と伝統文化の薫陶を重視しました。「礼義廉恥」という校訓が各校に掲げられ、伝統文化が台湾の土壌に深く根を下ろすよう、蒋介石は腐心したのです。
蒋介石はまた、教育の経済的保証と法的保証を監督しました。1969年から、台湾の義務教育を6年から9年に延長しました。これは後の台湾の経済発展を支える国民の素養向上に大きく寄与しました。さらに、蒋介石は中華民族の伝統節日を通じて民族文化を弘揚し、民族精神に関する教育を行いました。
1960年代に「中華文化復興運動」の政策を推進する中で、当時の台湾では、小学校から大学の入学試験、政府の公務員試験に至るまで、古典中華文化学習の関連科目を大幅に強化しました。特に孔子を中心とした儒家学説がとりわけ推奨されました。その理由は、中共が当時政治闘争のためにいわゆる「批林批孔」運動を行い、孔子の儒家学説を「反動派の文化」として批判・打倒したからです。
蒋介石は中共の「孔子弾圧」に対抗するため、台湾に孔子学説を守ることを使命とする「孔孟学会」を設立し、中華文化復興を教育の目的とする「中国文化大学」を創設し、中華文化の発展と研究の任務を遂行しました。一連の中華文化関連の学術著作を発表し、堯・舜・禹・商(殷)の湯王から周の文王・周の武王・周公旦・孔子へと続く正統な思想を学生たちに教授しました。学校で「忠孝教育」を行い、『文化基本教材』を編纂・使用し、学者に孔孟学説を推進させ、小中学校で「公民倫理課程」を実施しました。
台湾に遺された「中華の魂」
中華文化の復興運動は、台湾の学術・文芸界に「文化尋根②」の精神を呼び起こし、民族愛に満ちた多くの佳作を生みました。顔元叔教授は『民族主義文学』を出版し、マレーシア華僑で台湾に留学した温瑞安は『神州詩社』を創設し、活気あふれる文化人の高信疆は『龍族詩刊』を推進しました。大陸で文革の嵐が吹き荒れた10年間、台湾では皮肉にも中華文化の「黄金時代」が訪れていたのです。
特なかでも特筆すべきは、国民党政府が台湾へ退守する際、北京故宮博物院の重要文物をすべて運び出したことです。これは人類の文明保護において極めて重要な決断でした。もしこれらの至宝が台湾に移されていなければ、文革の荒波の中で破壊されていた可能性は極めて高いと言わざるを得ません。台湾に移された故宮の文物は中華文明の象徴とも言え、後で台湾に移住してきた知識人たちがこれによって中華文明の精神を守ることができたというのです。
1975年4月5日、蒋介石は世を去りました。遺言には「三民主義の実践、大陸国土の光復、民族文化の復興、民主戦線の堅守。これらは私の一生の志である」と記されていました。その意志は息子の蒋経国へと引き継がれました。
蒋介石氏が推進した「中華文化復興運動」。この運動によって、今日、台湾は華人社会において最も伝統文化を色濃く、かつ健全に継承した地域となりました。現在の台湾で、孔子の生誕祭が厳かに執り行われ、祝日で文化的な集いが開催され、日常の中で書画や茶、詩が嗜まれている風景は、まさにこの「中華文化復興運動」が撒いた種が、豊かな花を咲かせた結果なのです。
註
①義和団(ぎわだん)または義和団の乱とは、1900年に起こった清朝末期の動乱である。
②文化尋根(ぶんかじんこん)精神とは、近代化の中で忘れ去られた民族の「根(伝統文化・民族の魂・地域的な風俗)」を深く探求し、現代に活力や独自性を見出そうとする精神である。
(翻訳・慎吾)

