近年、中国の主要都市において、ある奇妙な光景が日常化しています。それは、訪れる外国人の目には「不可解」と映り、そして現地の人々の神経をもすり減らしている地下鉄駅での出来事です。

 列車のドアが開いた瞬間、まるでスターターピストルが鳴り響いたかのような緊迫感が走ります。ホームで待つ人々は「降りる人が先」という世界共通のマナーなど存在しないかのように、潮のごとく車内へとなだれ込みます。一方、車内から降りようとする乗客は、逆流に抗う小舟のように、無情にもドア付近で立ち往生を強いられるのです。

 特に北京の地下鉄における朝のラッシュアワーは、凄まじいものがあります。ビジネス中心地である国貿駅の朝は、一部で「尊厳の粉砕機」と形容されるほどです。ドアが開けば、地面に引かれた整列乗車のラインは無意味化し、人々はそのわずかな空間を確保するために、顔と体を密着させた肉弾戦を展開します。ある目撃談によれば、ランドセルを背負った小学生が大人たちの壁に挟まれ、足が宙に浮いたまま泣き叫んでいたといいます。しかし、その声は周囲の焦燥に満ちた息遣いにかき消されていきました。

 上海やその他の都市でも状況は似通っています。上海の地下鉄9号線では、豆乳を手にした会社員が降りようとした瞬間、乗車してくる人波によって車内奥へと押し戻され、朝食を床にぶちまけるという光景がありました。しかし、周囲の誰一人として足を止めず、謝意を示す者もいません。全員の目は、空いた立ち位置だけを捉えているのです。貴陽市では、このせめぎ合いが物理的な衝突に発展し、駅係員が悲痛な声で叫んでも、その声は喧騒の中に虚しく消えていきました。

 これらの光景は、単なるマナー違反や管理不足という言葉では片付けられません。そこには、ある種の切迫した集団心理が透けて見えます。多くの人々の潜在意識において、ルールを守ることは「損」であり、人より一歩先んじることだけが「生存の実感」となっているように見受けられます。中国のネット上では「地下鉄に裁判官が必要だ」という自嘲気味な冗談も飛び交いますが、その背景にあるのは、社会の深層に横たわる深い焦燥感なのです。

 現在の中国社会を見ると、国際的な場で「中国人観光客」が喧騒と無秩序の代名詞として語られることも少なくありません。かつて儒教を生み出し「礼節の邦」と称えられたこの国が、なぜ急速な近代化の中で、これほどまでに公共精神を欠落させてしまったのか。多くの観察者が抱く疑問です。

 一般的には「民度の問題」や「教育の遅れ」として片付けられがちですが、その深層を探るには、現代中国が歩んできた特殊な歴史的経緯を直視する必要があります。現在の公共精神の欠乏は、決して突発的なものではなく、特定の歴史的時期における社会構造と価値体系の崩壊がもたらした、長い「反響」であると言えるでしょう。

 中国の人々に、生まれつき道徳心がないわけではありません。伝統的な中国文化は、本来「礼」を重んじる社会でした。しかし、近現代、特に政権樹立後の数十年間において、その価値観は未曾有の衝撃を受けました。相次ぐ政治運動は、国家の権力構造を作り変えただけでなく、国民の精神世界をも深く改造してしまったのです。

 特筆すべきは、かつて「闘争」が至高の価値とされた時代の存在です。そのロジックの中では、人間関係は階級対立へと単純化され、伝統的な譲り合いの精神は「封建的な悪習」として否定されました。「造反有理(反乱には理がある)」が称賛され、師を敬い年長者を尊ぶ秩序が破壊された時、社会公徳の土台は大きく揺らぎました。

 さらに深刻なのは、長期にわたる政治的混乱が、社会の基本的な信頼メカニズムを破壊したことです。激動の時代、人々は自己防衛のために密告を覚え、隣人を警戒し、混乱の中で先手を打つことを学びました。この「極限状態における生存の知恵」は、いつしか集団的無意識へと変化していきました。「争わず、奪わなければ淘汰される」「ルールを守る正直者は馬鹿を見る」という、ある種のサバイバル思想です。

 あの時代は過去のものとなりましたが、そこから遺された「闘争哲学」と「相互不信」は、現代社会においても完全には払拭されていません。それは、現代版の「ジャングルの法則」として形を変えて残存しています。地下鉄のドア前で繰り広げられる押し合いは、限られた資源(座席や空間)に対する不安と、他人への不信感が、公共空間で微小爆発を起こしている姿とも言えるのです。教育現場においても、長らく人格形成よりも競争と点数が優先されてきた結果、他者への配慮よりも「勝つこと」への執着が植え付けられてきました。

 したがって、「降りる人が先」というルールの無視は、単なるマナー違反ではなく、精神的な断絶を経験した社会が抱える後遺症のようなものです。中国の人々が、他国の秩序ある社会を見て複雑な感情を抱くのは、他者という鏡を通して、自国がかつて持ち合わせながら、歴史の波にさらわれてしまった「失われたもの」を見ているからに他なりません。

 しかし、変化の兆しは確かに存在します。混乱する地下鉄駅でも、秩序を維持しようと声を上げる若者が現れています。ネット上では、現状を嘆き、文明的な振る舞いへの回帰を求める声が日増しに高まっています。これ自体が、社会が自浄作用を働かせようとしている証左です。

 文明的な秩序の再構築は、一朝一夕には成し得ない困難な道のりです。中国社会は今、物質的な豊かさを手に入れた後、精神においても「欠乏ゆえに奪い合い、恐怖ゆえに冷淡になる」という歴史の呪縛から、どのように抜け出すかという課題に直面しています。

 地下鉄のドアの前で一瞬立ち止まること、他者に善意を持って道を譲ること。その些細な行為の積み重ねこそが、この巨大な社会が負った歴史的トラウマに対する、微細ながらも確実な治療となるはずです。中国社会が、壁に貼られたスローガンとしてではなく、人々の内発的な本能として「他者への敬意」を取り戻した時、この国は真の意味で歴史の影を抜け出し、大国としての品格を備えることになるでしょう。

(翻訳・吉原木子)