松尾芭蕉が旅に追い求めたものは.
「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良(森川許六作)(パブリック・ドメイン)

 松尾芭蕉は俳句を芸術の域にまで高めた「俳聖」として知られると同時に、生涯を通じて旅を続けた旅人としても有名です。

 芭蕉は41歳から亡くなるまでの10年間、特に活発に旅に出て多くの紀行文を残しました。その代表作である『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という有名な一節があります。それは、松尾芭蕉の「人生とは旅そのものである」という人生観を色濃く反映しています。

一、人生は旅である

 松尾芭蕉が本格的に旅を始めたのは41歳の時でした。

 1684年、41歳の芭蕉は、江戸深川の草庵を出発し、故郷伊賀上野を含む初めての長期的な紀行の旅に出ました。この旅の記録は後に『野ざらし紀行』としてまとめられました。

 この旅に出立する際、芭蕉は「野ざらしを心に風のしむ身かな」という有名な句を詠んでいます。これは、旅先で命を落としても構わないという、凄まじい決意と覚悟を表明したものです。

 1687年、芭蕉は江戸と鹿島を往復する旅をしました。鹿島神宮への参詣と、参禅の師である仏頂和尚を訪ねることが目的でした。この旅の記録は紀行文『鹿島詣』として残されています。

 1687年10月から翌年4月にかけて、芭蕉は江戸を出立し、鳴海、保美を経由して、故郷の伊賀上野で年を越した後、伊勢、吉野、高野山、和歌浦、奈良を経て、大阪から須磨、明石まで旅をしました。この旅の様子は『笈の小文』に綴られています。

 1688年8月 芭蕉は木曽路を通り、信濃更科の姥捨山で月見の旅をし、この旅を記録したのが『更科紀行』です。

蕪村画 逸翁美術館(パブリック・ドメイン)

 1689年、芭蕉は江戸を出発し、東北、北陸を巡って大垣に至る長旅をしました。この150日間かけて、2400キロも歩いた旅は、有名な紀行文『奥の細道』として記録されました。

 『奥の細道』の序文で、芭蕉は人生そのものを果てしない旅になぞらえ、旅への深い思い入れを、以下のように綴っています。

(現代文訳)

 月日は永遠にとどまることのない旅人であり

 やってきては過ぎ去る年もまた旅人である 

 船頭や馬子は、日々が旅であり、旅そのものを住まいとしている

 昔の詩人も旅の中で亡くなった者は多い

 私もいつの年からか、ちぎれ雲が風に誘われていくように

 旅心を抑えることができず 海浜をさすらう              

 ………

 奥の細道から戻った後も、芭蕉は旅を続けました。そして1694年、芭蕉は病をおして最後の旅に出ます。芭蕉は江戸を出発し、大阪へ向かいますが、大阪滞在中に病状が悪化し、51歳で亡くなりました。その辞世の句は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」でした。

 芭蕉はまさに「旅に生き、旅で命を落とす」という自らの人生哲学を実践した人物と言えるでしょう。

二、旅をする理由とは何か?

 芭蕉は、西行法師や宗祇、中国の李白や杜甫など、多くの旅に生き、旅に死んだ古人への強い憧れを抱いていました。中でも特に、中国の詩人である李白から強い影響を受けていたことが知られています。

 桃青(とうせい)という俳号は、芭蕉が李白を強く意識して用いたものだと思われます。「桃紅李白」という漢詩の言葉にちなんで、自分はまだ熟していない青い桃であるから、「桃青」という名に決めたそうです。

 また、代表作『奥の細道』の冒頭の「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」は、李白の「春夜宴桃李園序」の一節「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」を踏襲し、独自の表現で書き換えたものです。 

 それでは、芭蕉が尊敬する詩人李白はどのような放浪人生を送ったのでしょうか。

1)  李白の放浪人生

 李白の人生の大半は、各地を転々としながら旅をする「放浪」に費やされました。

 724年頃、24歳の李白は故郷の四川省を離れ、およそ16年間にわたる最初の大規模な放浪の旅に出ました。この遍歴では、当時の中国の中心地である長安、洛陽といった大都市だけではなく、揚州や他にも広範囲にわたり、多くの足跡を残しました。744年の春、44歳の李白は長安を追放されてから、2度目の旅を始め、亡くなる762年に至るまで、中国を遍歴しました。

 李白が放浪人生を送った背景には、立身出世の夢、宮廷生活への失望、そして、天才がもたらす自由闊達な性格などの要因がありますが、彼が深く信仰した道教思想もその生き方を強く後押ししたと考えられます。

南宋の画家梁楷の墨筆画「李白吟行図(東京国立博物館蔵)」(パブリック・ドメイン)

 李白は道教の修行をし、神仙を慕い、現世的な名利に執着せず、人生の真意、生命が昇華する道を追い求め続けていました。

 「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり。浮生は夢の如し、歓びは幾何ぞ」と李白は嘆き、この一度の人生は、あたかもこの天地への旅のように、あっという間に過ぎ去っていくものに過ぎず、「僕の本当の故郷は何処にあるのか」という根源的な質問を問いかけ、人生の大いなる夢の答えを懸命に探求しました。

 李白の詩の中で最も頻繁に登場する題材の一つが月です。人生の不遇や孤独、故郷への思いといった様々な感情を月に託した彼が、直接的、間接的に月を詠んだ詩は300余りにものぼるとされています。

 762年、李白は62歳で亡くなりました。 その死については諸説ありますが、長江で酒に酔い、水面に映る月を捉えようとして溺死したという伝説が広く知られています。見果てぬ夢を追い続ける李白の生涯を総括した、象徴的な逸話と言えるでしょう。

2)  旅で「人生の真実」を探求する芭蕉

 芭蕉も旅を人生そのものとして捉えていました。彼は自らを「風羅坊」と称し、生涯妻子を持たず、旅を修行と捉え、旅をしながら句を詠む生活を送りました。芭蕉は、李白とは生きた時代も場所も異なりますが、「人生は旅である」という根源的な人生観は共通していました。

 また、芭蕉は老荘思想や禅思想からも深い影響を受け、世俗的な欲望を離れた「わび」、自己や世俗世界の無常を寂しく感じる「さび」と言った俳諧の理念を確立しました。

 芭蕉が亡くなる数日前に病床で詠んだ最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は、今の言葉にすると、「旅の途中で病に倒れてしまった。もう私の肉体は動かないが、私の心や夢は、まだこの枯野(旅路)を駆け巡っているのだ。」という意味です。

 そこには、生涯を旅に捧げ、旅への深い情熱と、最期まで求道者として生きようとした芭蕉の精神が込められているように思います。

三、結びの言葉

 李白や松尾芭蕉といった歴史上の偉人たちは、生涯をかけて「人生の旅の真髄」を追い求めました。彼らにとって、旅は深い精神的な探求であり、世界の真理を理解するための重要な手段でした。彼らの生き様や探求心は、現代を生きる私たちにも通じる普遍的な示唆を与えてくれているのではないでしょうか。

 「……この宇宙で、人間の生命は常人社会の中で生じたものではない、とわれわれは見ています。人間の本当の生命は宇宙空間で生じたものです。この宇宙には生命を造るさまざまな物質がたくさん存在しており、これらの物質が互いに働き合うことによって、生命が誕生します。つまり、人間の最初の生命は宇宙に起源を持つということです。……」

 「……返本帰真することこそ、人間としての本当の目的です……」と李洪志先生の著書である『轉法輪』には書かれています。                               

 もし、人間の最初の生命が宇宙に起源を持つとするならば、もし、生命を誕生させた宇宙に戻ることこそ、人間としての本当の目的であるとするならば、地上はあくまでも我々が泊まる宿であり、我々は地上で旅をする旅人に過ぎない、ということがとてもよく理解できます。

 とはいえ、「我々はなぜ天上から地上におりて来たのか」、「どうすればその本来の故郷に帰ることができるのか」、「その帰路はどこにあるのか」……さまざまな疑問はまだまだあるように思います。

 それらのことに興味ある方は、ぜひ一度李洪志先生の著書『轉法輪』をお読みください。その全ての疑問に答えてくれる本です。

 以下のアドレスで無料で『轉法輪』を閲覧できますので、ぜひご利用ください。

『轉法輪』

(文・一心)