法門寺塔(Wikimedia Commons / 唐戈 CC BY-SA 3.0

 法門寺(ほうもんじ)は陝西省宝鶏市扶風県城の北10kmの法門鎮にあり、東は西安市から12km、西は宝鶏市から96km離れており、後漢の恒帝と霊帝の時代(147~189)に建立され、すでに1800年余りの歴史がある。法門寺の境内には塔があり、塔の中にお釈迦様の佛舎利(ぶっしゃり)が供養されており、法門寺はこれによって有名である。

法門寺の歴史

 釈迦牟尼佛が入寂した後、遺体を火葬した時にたくさんの佛舎利が得られた。紀元前3世紀にアショーカ王がインドを統一した後、佛法を広めるために、その佛舎利を8万4千部分に分けて、世界の各国に分配して塔を建てて祀ってもらうことにした。中国では19基の佛真身舎利塔が建立された。法門寺塔はその中の第5基といわれている。北魏時代(386年~534年)にはかなりの規模の寺が立てられた。その時の寺は阿育(アショーカ)王寺と呼ばれ、その塔は阿育王塔と呼ばれた。その後北周の武帝の廃佛によって、この寺も廃毀(はいき)された。

 隋朝になって、文帝は佛教を尊崇し、寺も再建されたが、北魏時代の結構(けっこう 規模)を回復することはできず、また寺の名は成実道場と改められた。その後、隣接する宝昌寺に編入された。唐代になってから、阿育王塔は古代インドのアショーカ王が全世界に建立した8万4千の塔の一つであるという信仰が根付いた。武徳元年(618年)には、寺を宝昌寺から独立させ、寺の名を法門寺と改めた。貞観5年(631年)に、塔が修復され、顕慶5年(660年)には、高宗が宝塔内の佛舎利を東都洛陽の宮中に迎えて法要を行ない、併せて塔の修復も行なった。しかし、唐代の会昌年間(841年~846年)に廃佛した際、法門寺も被害を受けた。その後、懿宗時代(859年~873年)に盛大な法会と共に佛舎利を長安に奉迎し、法門寺を盛大に修復した。

 その後、歴代にわたり法門寺は大事にされ続けてきたが、1949年に中国共産党政権が誕生した後、1956年に法門寺は第一批重点文物保護単位として認定されたが、文化大革命時期(1966年~1976年)に、紅衛兵によって諸堂や諸像が破壊された。時の住職であった良卿法師は、宝塔や伽藍(がらん)を守ろうとして真身宝塔前で焼身を図り、その他の僧侶らも殺戮され、寺は「扶風県無産階級造反派臨時総指揮部」となった。

佛舎利の再発見

 1981年、大雨で法門寺の塔が半壊したため、1987年から基礎部分を含めた修理が始まった。そのとき、地下に唐代に造られた石室「地宮」が発見された。地下宮殿から出土した四つの佛舎利の指は、目下のところ、世界的な考古学の発見であるとされている。文献や碑文を通じて、それらは釈迦牟尼の本物の佛舎利であると実証され、現時点では佛教界最高の聖物である。一方専門家の分析によると、地下宮殿の中で発見された四つの佛陀の指骨は、実はその中で本物の佛陀の指骨は一つだけで、その他の三つは本物の佛舎利を保護するために模造された「影の骨」であるという見解もある。真偽はどうであれ、世界でわずかに残されている貴重な発見であることは確かだ。地下宮殿の後方にある八重宝函には、佛舎利を入れるために金銀、真珠、宝石、玉石、象牙で作られた入れ子細工の箱が陳列されている。

佛舎利の実質

 舎利はまた舎利子とも言い、サンスクリット語の「sarira」から由来している。佛道を修煉して成就した人が入寂して遺体が焼かれた後に残る丸玉状や花の形をしたものが舎利で、非常に硬く、光沢もあり、自ら発光するものである。現代科学では、この物質の実体をまだ解明できておらず、現在伝えられている佛家修煉法である法輪大法の修煉を指導する著作『轉法輪』の中で、舎利について次のように述べられている。

「和尚が亡くなって火葬する時に舎利が出てくることがあります。それを骨とか、歯とか言う人もいますが、常人にはなぜないのでしょうか?それは丹が爆発して、エネルギーが放出され、その中に大量の他の空間の物質が含まれているからです。それも物質的存在ではありますが、あまり役に立つことはありません。今の人はそれをなかなか貴重なものと見ていますが、ただエネルギーがあり、光沢があり、非常に硬いだけのものです」

(文・東方)