紀元前260年の戦国七雄(イメージ:Philg88 / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

恵王が反間の計にかかり、あと一息で成功するところで失敗

 連合軍が速やかに斉を攻め落とし、燕軍を斉の各地に配置し、国民を安心させることによって民心を得られ、斉を征服できると楽毅は考えていた。しかし斉の将軍・田単は反間の計を用い、「楽毅は6ヶ月で七十余りの城を落とせたが、なぜ3年かけても即墨と莒を落とせないのか? その理由は楽毅が自ら斉王になろうと企んでいるからだ」と、流言を流した。それを聞いた昭王は「楽毅の功績は天地を覆っている。王に封じても構わない」と言い、使者を送って楽毅を斉王に封じようとした。楽毅は昭王の絶大な信頼と厚意に感激しながら、王の冊封を死んでも受けられならいと言い、昭王との約束を守り、「昌国君」の冊封だけを受け入れたのだった。

 その最中に昭王が崩御し、死後に太子の恵王が即位した。斉の将軍・田単は、恵王の疑り深い性格と、太子時代に楽毅と不仲だった時期があったことを知っており、再びに反間の計を用いた。恵王は流言を信じ、直ちに楽毅を解任して帰還させ、騎劫を将軍として送り、楽毅の代わりに兵符を引き継がせた。一方、田単は即墨で反攻に転じ、騎劫の率いる燕軍を撃破し、奪われていた七十余りの城を全て奪還し、楽毅の苦労は泡のように消えてしまった。

陥れられても論争しない大将の模範

 楽毅は言い争うことはなく、黙々と趙に戻った。恵王は楽毅が自分を恨み、趙軍を率いて燕に攻めてくることを恐れた。恵王は楽毅に手紙を送り、「父の昭王から受けた恩に対して、あなたはどのように報いるつもりか?」と問うた。この楽毅の恵王への返答は、後世に名文と謳われる「燕の恵王への報書」である。

 楽毅は昔のことを振り返り、「先王から絶大な恩を受けていましたが、燕に帰れない理由は、先王と恵王の名誉を守るためです」と穏やかに語り、伍子胥の物語を例に挙げた。自分はおろかしい忠義だてはせず、不実の言いがかりで殺されたくないと表明し、寛容で善良な君王であってほしいと恵王に忠言した。
 
 楽毅は趙にいる間、恵王から受けた仕打ちにこだわらず、生涯にわたって趙と燕の友好に尽力した。かの諸葛孔明も出世前の南陽にいる時、楽毅に憧れを抱いており、楽毅のようになりたいと思っていたそうだ。

(おわり)
 
(原文・藍 廷綱 / 翻訳・清水 小桐)