(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 夜、子供たちを連れて公園に遊びに行った。子供たちは、月の光が照らす夜の公園が大好きだ。

 二人の子供は少し年が離れているため、身長は当然のことながら、走る速さも安定性にも差がある。兄は弟よりずっと速く、安定性もある。それでも二人は仲良く遊び、疲れを全く知らないようだ。足の速さ比べをしても、まったく休む気配を感じない。兄が「スタート」と大きな声で言うと、二人はふざけ合いながら前に飛び出していく。

 兄がわざと弟に何歩か譲ることも時々ある。だけど弟が先に走ってもすぐ兄に追いつかれてしまう。結果はいつも兄の勝ちだ。そして草相撲をして遊ぶ時も、弟はたいてい負ける。だけど弟は勝ち負けを気にせずに、楽しそうに遊んでいる。彼は勝ち負けではなく、遊ぶという行為自体に楽しさを見出しているのだ。

 二人の兄弟が何回相撲を取ったか、何回速さ比べしたのか私は数えていなかった。ただ、長く座って寒くなって来たので、家に帰ろうと声をかけた。子供たちは帰りたがらなかったが、兄が帰る道で速さを競おうと言ったので、弟も快くそれに応じた。そして力の限り走り抜けていった。弟はまたもや負けてしまったが、笑顔を絶やすことはなかった。

 弟は勝ち負けを全く気にしないため、負けても楽しくいられるのだ。子供の世界は単純だな、と思った。一緒に遊んでくれる仲間がいて、かけっこしたりいろいろな遊びをしたりすることが出きれば、それで笑顔になれる。勝ち負けなどどうでもよい。彼らは遊ぶことの過程に楽しさを見出しているのであり、結果は全く気にしないのだ。

 我々自身を振り返ってみると、かえって子供のような闊達さと包容力に欠けているように思えて仕方がなかった。確かに勝ち負けにそれほどこだわるわけではない。しかし全く気に掛けないわけではないのだ。そして過程よりも結果を気にしがちだ。たとえ物事の過程に意味があり、価値があったとしても、結果的に負けてしまっては素直に喜ぶことができない。逆に、負けてしまっても動じずにいられるのなら、日常の煩わしさも幾分か減るのではないだろうか。

(文・青松 / 翻訳・宛漣音)