秦の始皇帝陵の兵馬俑(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 古来より、軍隊の食糧事情は前線で戦う兵士にとって一大事でした。食事の質と量は兵士の身体能力に直接的な影響を及ぼし、作戦の勝敗をも左右することがありました。では、古代中国の兵士は何を食べていたのでしょうか。

 中国最古の軍隊糧食は狩りで捕った獲物でした。殷の時代には「田狩」と呼ばれる大規模な狩猟活動が行われ、千人以上の兵士を動員し数百頭の野生動物を捕まえることができました。甲骨文字で書かれた古文書によれば、殷の軍隊は一度の田狩で451頭の鹿を捕まえました。

 周の時代になると田狩はさらに規模を増し、周の武王は一度に一万頭以上の動物を捕らえたと記録されています。軍隊の食糧をまかなう為にも、殷や周は絶えず領土を拡大する必要がありました。周の時代になると、その領土は現代の陝西省や山西省、山東省、安徽省まで拡大しました。

 捕らえた獲物以外にも、主食として粟(アワ、黄色で小粒の穀物)が食されていました。とはいえ食べ方は蒸してご飯にするのではなく、濃い粥(かゆ)にして食べていました。夏王朝、殷王朝、周王朝は野菜入りの粟粥が糧食の中心であり、そこに豆類や肉類を入れました。食器は主に陶器(粘土を比較的低温で焼き上げたもの)が用いられていました。当時の粥は主食であったため非常に濃く作られ、「厚(濃いの意)」と呼ばれました。

 粟は唐王朝期まで軍隊の主食であり続けました。中国の政治的・軍事的中心地が主に北方であったためです。さらに粟は米よりも長期保存に向いていることも理由の一つです。唐王朝期の文献によれば、粟は最大9年間保存できるのに対し、米は5年しか保存できませんでした。実際、粟の保存期間はさらに長く、長安城に蓄えられた粟は20年物でも食用ができたと言われています。

 では兵士一人の食糧はどれくらいだったのでしょうか。秦王朝の規定によると、重労働に従事する兵士は朝に粟半斗(1リットル。秦代では1斗=2リットル)、夜に粟三分の一斗(0.67リットル)が支給されました。歩哨などの比較的軽い任務は朝と夜にそれぞれ粟三分の一斗(0.67リットル)が支給されました。漢王朝期には、重労働に従事する兵士は一か月に2斛9斗3升(約58.6リットル。漢代では1斛=10斗、1斗=10升、1升は約200ミリリットル)の粟と、食塩3升(約600ミリリットル)が支給されました。唐代になると、兵士一人につき一日2升(約1.2リットル。唐代では1升=600ミリリットル)の穀物が支給されました。

 宋王朝期には、中央軍に相当する禁軍の兵士は月に2.5石(約168リットル。1石=67リットル)の穀物が支給され、地方軍の廂軍の兵士には2石(約134リットル)の穀物が支給されました。

 明代でも主食となる穀物は依然として支給されていましたが、小麦粉が普及したこの二より、餅(ビン。小麦粉を使って作られた生地を伸ばして焼き上げた中国風のパン。)が軍隊の携帯食として人気を博しました。餅は丸く作られ、真ん中にはひもを通して持ち運べるように穴が開いていました。食糧の進歩により明軍は敵を長距離に渡って追撃することが可能となり、中国華北の寒冷地や森林地帯での作戦遂行能力を大幅に向上させました。

(翻訳・黎宜明)