北京市の紫禁城の中心である太和殿(たいわでん)(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 千年の歴史を持つ中国。歴代の王朝には、夏、商、周から元、明、清まで、それぞれの「国号」がありました。ここで、中国の歴代の王朝の国号の由来を簡単に紹介します。

夏朝の創始者である禹(う)(絵:看中国/Winnie Wang)

 夏(紀元前2070年頃 – 紀元前1600年頃)

 初代君主:禹(姒文命)

 最後の君主:桀(夏后履癸)

 実在性を疑われるほど遠い昔の王朝・夏。その国号の起源には十数の説があります。

 『史記』の著者、前漢の歴史家・司馬遷によると、「夏」は姒(じ)の姓を持つ夏后氏、有扈氏、有男氏、斟鄩氏などの12の氏族でできている部落の名前でした。部落の中では夏后氏が首領とされていました。王朝創始後、初代君主の禹は部落の名前の「夏」を国号にしました。これは「夏」の国号の最も一般的な起源説です。

 また、史記三家注のひとつ『史記正義』(しきせいぎ)の著者、唐代の張守節によると、「夏」は、禹が陽翟県(ようてきけん)に帝舜から「夏伯」と封ぜられたことから起源したと言われています。

殷王朝の初代王である天乙(商湯、成湯)(南宋・馬麟「商湯王像」の一部、パブリック・ドメイン)

 商(殷、紀元前1600年頃 – 紀元前1046年)

 初代君主:湯王(子履)

 最後の君主:紂王(子受)

 商人の始祖・契(せつ)は、帝舜のときに禹の治水を助けた功績が認められ、帝舜により「商」の地に封じられ、「子」の姓を賜りました。契の部落も「商」と称されました。契の子孫・子履は、天道を背いた夏桀を追放し、夏を滅ぼしました。新しく創立された王朝は、先祖の封地の名前「商」を国号にしました。

 一方、「殷」の国号は、後の周の人が先代の王朝を指す名前です。

武王(姫発)(Public domain, via Wikimedia Commons)

 周(紀元前1046年 – 紀元前256年)

 初代君主(西周):武王(姫発)

 最後の君主(東周):赧王(姫延)

 周人の始祖・古公亶父(姫壇)は、一族を周原(岐山の麓)に移住し、城郭家屋を築きました。その後、商王朝の冊封を賜り、「周」という方国まで発展しました。その首領も「周侯」や「周方伯」、「周王」と呼ばれました。

 商王朝期、周原はお米の産地でした。甲骨文字の「周」は、田んぼの中のお米の形をしており、現存の甲骨文の文献にも、商と周の交流が記録されています。かの有名な牧野の戦いでは、姫発が紂王を討ち取り、殷を滅ぼしました。新しく創立された王朝は、かつての方国の名前「周」を国号にしました。

始皇帝(嬴政)(絵:看中国/Winnie Wang)

 秦(紀元前221年 – 紀元前207年)

 初代君主:始皇帝(嬴政)

 最後の君主:三世(嬴子嬰)

 秦という国号もまた地名に起源します。『史記』によると、秦人の始祖・顓頊帝の孫・大費(または伯益)は、帝舜のときに禹の治水を助けた功績が認められました。また帝舜は大費に鳥獣を司らせたところ、鳥獣は皆順服しました。そのため、大費は嬴(えい)の姓を賜りました。

 周王朝期、大費の子孫・非子は、馬をよく馴らし功があるため、周の孝王に「秦」の地に封じられました。秦の地は後に周の諸侯国になりました。そして嬴政は天下統一を成し遂げ、「秦」を国号にしました。

紀元前141〜87年、武帝の時代の漢王朝の境界線(玖巧仔, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 漢(紀元前202年 – 紀元220年)

 初代君主(前漢):高帝(劉邦)

 最後の君主(後漢):献帝(劉協)

 秦王朝の末期、群雄が兵を起こし暴政に反旗を翻します。項羽が秦の首都・咸陽に入ってから、反秦連合の諸侯に対し、中原の大地の領地分配を行いました。劉邦はその一人で、漢中および巴蜀が与えられ、「漢王」と封じられました。そして、劉邦は韓信の助けとともに天下統一を成し遂げ、「漢王」であったことに因んで「漢」を国号にしました。

 「漢」を国号にした王朝も多くありました。劉邦が建立した「前漢(西漢)」と劉秀が建立した「後漢(東漢)」を合わせて「漢王朝」と呼ばれます。その後、三国時代の劉備が建立したのは「蜀漢(季漢)」でした。

西晋の初代皇帝である司馬 炎(しば えん)(パブリック・ドメイン)

 晋(紀元266年 – 紀元420年)

 初代君主(西晋):武帝(司馬炎)

 最後の君主(東晋):恭帝(司馬徳文)

 「晋」の国号の起源は周王朝期まで遡ります。周王朝期、晋地の君主・文公は、反乱にあって逃亡してきた周の襄王を保護し、都の反乱を鎮めました。襄王は復位することができ、晋の文公に伯の位と河内の地を与えました。その河内の地に司馬という名族がいました。三国時代、魏の権力を掌握する司馬懿の息子・司馬昭は戦功によって「晋公」となり、蜀漢を滅ぼした頃に「晋王」となりました。司馬昭の死後、息子の司馬炎は「晋王」を継ぎ、同年には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、国を統一し、自身の爵位から「晋」の字を国号にしました。

隋の初代皇帝である楊堅(唐・閻立本「歴代帝王図巻」の一部、パブリック・ドメイン)

 隋(紀元581年 – 紀元618年)

 初代君主:文帝(楊堅)

 最後の君主:煬帝(楊広)

 隋の文帝・楊堅の父楊忠は、かつて北周に「隨(随)国公」と封じられました。「隨」は元々国の名前で、戦国時代の末までは楚国の領地であり、紀元535年に「隨州」として設置されました。580年12月、楊堅は「隨王」と封じられ、翌年、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋王朝を開きました。

 『資治通鑑』の注釈書・『資治通鑑音注』の著者、宋代の胡三省によると、楊堅は父の爵位を継ぎ、「隨国公」になりました。しかし、「隨」の文字には「辶(しんにょう)」があり、「走」という不吉な意味を持つと楊堅は考えたため、楊堅は皇帝になってから、「隨」から「辶」を取り除いた「隋」を国号にしたそうです。

唐朝の第2代皇帝である太宗(たいそう)李世民(看中国/Vision Times Japan)

 唐(紀元618年 – 紀元907年)

 初代君主:高祖(李淵)

 最後の君主:哀帝(李柷)

 唐の国号の起源にも様々な説があります。その一つの説は、高祖・李淵の祖父・李虎は、西魏の「八柱国」の一つの隴西郡公で、没後に成立した北周においては、建国の功臣として「唐国公」の爵位が追贈されました。李淵は7歳の年で父の爵位を継ぎ、建国後、爵位の「唐」を国号にしました。

 もう一つの説では、五帝の一人の堯は13歳の年で陶の土地に封じられ、15歳の年で唐の土地に封じられました。堯は20歳の年で帝となり、「陶唐氏」と称しました。堯の子孫もその土地で諸侯国を建てました。李淵は晋陽の近くの太原の留守に任じられたこともあり、晋陽で起兵し唐を興しました。『漢書・地理誌』によると、晋陽は「唐国」という別称がありました。ですから、「唐」という国号は発祥の地の意味もあるそうです。

紀元1111年、遼王朝と北宋の境界(玖巧仔, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

 宋(紀元960年 – 紀元1279年)

 初代君主(北宋):太祖(趙匡胤)

 最後の君主(南宋):少帝(趙昺)

 宋王朝の開国君主・趙匡胤は宋を建国する前に、帰徳軍節度使に就いていました。その帰徳軍を管轄する軍治所の所在地は宋州でした。春秋時期、宋州は宋国の古地でした。そのため、趙匡胤は建国後、出世の地の名前「宋」を国号にしました。

元・劉貫道「元世祖出猟図」の一部(パブリック・ドメイン)

 元(大元、紀元1271年 – 紀元1368年)

 初代君主:世祖(ボルジギン・クビライ)

 最後の君主:恵宗(ボルジギン・トゴン・テムル)

 元王朝の前身はチンギス・ハンの建国したモンゴル帝国でした。1271年、クビライは『建国号詔』を公布し、自分が建てた王朝は中国の土地における正当な王朝で、『周易』から「乾元」の語を取り、国名を「大元」に変更すると国民に知らせました。これで元王朝の国号は正式に「大元」になり、国号に「大」をつけたのは史上初でした。

紀元1402年―1424年、明王朝の領土(玖巧仔, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 明(大明、紀元1368年 – 紀元1644年)

 初代君主:太祖(朱元璋)

 最後の君主:思宗(朱由検)

 明の国号の起源にも様々な説があります。明王朝の大臣・柯仲炯によると、太祖の朱元璋は火の神・祝融の土地と言われた金陵を首都としました。祝融の「大明(大いなる光明)」は比類なきもので、金陵で建てた国は必ず「大明」をもって天下を照らし、国民を安定できるため、「大明」を国号にしました。これが最も有力な起源説です。

清「万国来朝図」の一部(パブリック・ドメイン)

 清(大清、紀元1636年 – 紀元1912年)

 初代君主:太宗(アイシンギョロ・ホンタイジ)

 最後の君主:遜帝(アイシンギョロ・プーイー)

 清の国号の起源にも様々な説があります。

 清の前身は女真族の「金」でした。その「金」の国は、漢民族の宋を南方に追撃したことがあります。当時の明王朝に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、「金」と同音異字の「清」としたという説があります。

 また、五行説から見ると、明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」を表す「氵」と、『周礼』で東を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、「清」の国号には中原進出の意味を込めたという説もあります。

 いかがでしょうか。多くの国号は、建国君主が出身地や経典から抜粋した文字で、国の末永い安泰を祈ってつけられています。しかし、羅貫中が言った通り、「天下の大勢は、分かれること久しければ必ず合して、合すること久しければ必ず分かれるもの」です。長い歴史を振り返ってみると、これからの未来がますます楽しみになるかもしれません。

(翻訳編集・常夏)