百万塔。九州国立博物館蔵。(ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

 一、百万塔と「百万塔陀羅尼」

 1200年前の日本奈良時代に作られた「百万塔陀羅尼経」は、現存する世界最古の印刷物だと言われています。「百万塔陀羅尼経」とは、称徳天皇の発願により作製された木製の三重小塔とその塔身に納められた陀羅尼経の総称です。

 764年9月、藤原仲麻呂の乱の後、称徳天皇は、小塔を作り、陀羅尼経を納めれば、滅罪と鎮護国家の功徳があると言う考えに基づき、百万塔を造顕するという大きな国家事業を進めました。

 職人達は6年の年月を費やし、三重の木造の小塔を100万基作り、それぞれの小塔に世界最古の印刷物と言われる陀羅尼経を納めました。当時100万基の塔は鎮護国家の目的で大安寺、元興寺、興福寺、薬師寺、東大寺、西大寺、法隆寺、四天王寺、崇福寺、弘福寺の10大寺に10万基ずつ分置されました。しかし残念なことに、現在、小塔は法隆寺に4500基あまりしか残っていません。

 陀羅尼経の印刷方法については、木版説や銅版説など諸説あり、特定できません。しかし、100万という膨大な数字から、当時、高度な木工と印刷技術による大量生産体制が確立されていたことや、奈良仏教と国家との強い結びつきをうかがい知ることができます。

 二、世界最古の印刷物

 紙は中国の後漢の蔡倫(50年?〜121年?)によって発明され、木版印刷は6世紀中期に中国で誕生したと言われています。

 しかし、中国で現存する最も古い印刷物は、敦煌で発掘された868年に印刷された仏教経典『金剛般若波羅蜜経』(大英図書館所蔵)しかありません。それは日本の「百万塔陀羅尼経」より100年も遅く印刷されたものになります。

 印刷術は中国と朝鮮半島を経て日本に伝えられ、日本で発展しました。《続日本紀》宝亀元年(770)4月26日条に,称徳天皇が「弘願(ぐがん)を発して三重小塔一百万基を造らしむ。高さ各四寸五分。基の径三寸五分,露盤の下に根本,慈心,相輪,六度等の陀羅尼を置く。(中略)諸寺に分置す」と、「百万塔陀羅尼経」の製作について明記されています。

百万塔に納められた経典。日本最古の印刷物(東京国立博物館所蔵)。(ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), CC BY 4.0, via Wikimedia Commons)

 1966年、韓国の慶州市にある仏国寺三層石塔に納められた、木版摺の『無垢浄光大陀羅経』が発掘され、日本の百万塔陀羅尼経より20年ほど早く作られたものだと言われていますが、明確な文献の記載があるものとしては、日本の百万塔陀羅尼経が現在、世界最古の印刷物とされています。

 三、百万塔陀羅尼経を作った称徳天皇

 称徳天皇は東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘で、749年、聖武天皇から譲位され、孝謙天皇として第46代天皇になりました。孝謙天皇は仏教の信仰に篤く、752年に、聖武発願の東大寺大仏開眼会を盛大に執り行い、754年に、大仏殿の前で中国から渡来した高僧・鑑真和尚から受戒しました。

第46代、第48代天皇(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 758年、孝謙天皇は重用していた従兄にあたる藤原仲麻呂の進言により、舎人親王の子(淳仁天皇)に譲位し、上皇となりました。

 764年9月、藤原仲麻呂の反乱は失敗に終わり、淳仁天皇も廃位されました。再び即位した称徳天皇は、反乱が二度と起こらないよう、願いを込めて木の塔を百万基製作することを決定し、西大寺や西隆寺を建立するなど、仏教を中心とした政治を推し進めました。

 称徳天皇が篤い信仰により、100万基という膨大な数の小塔の製作と陀羅尼経の印刷という国家プロジェクトを推進した結果、1200年もの歳月の試練に耐え、度重なる災害や戦火を免れ、「百万塔陀羅尼経」は世界で最も古い印刷物として現在まで保存されてきました。

 「百万塔陀羅尼経」は日本の印刷文化史上の重要文化財だけではなく、世界の印刷技術の起源を研究することに於いても極めて重要な意味があり、そして、奈良時代の人々の敬神崇佛する姿も浮き彫りにしているのです。

(文・一心)