17世紀、清朝を代表する名君・康熙帝(こうきてい)は十代の若さで即位し、およそ60年にわたって善政を敷きました。政治制度の改革を断行する一方で、自ら学問を奨励したことで、文化が大いに発展する黄金時代を築き上げたのです。また、優れた軍事的手腕を発揮して外敵を退け、国内に潜む汚職官僚たちにも果敢に立ち向かいました。時には、高貴な身分を隠して町や村を訪れ、人々の暮らしをその目で確かめたといいます。
2026年の神韻芸術団の巡回公演では、舞踊劇『康熙帝のお忍び』において、この康熙帝の物語が舞台上で再現され、世界中の観客から喝采を浴びています。しかし、一国の皇帝である康熙帝は、「巡幸(じゅんこう)」という名の公式な地方視察はともかく、ドラマのような「お忍び」を本当に実行できたのでしょうか。今回は、史実としての「巡幸」の記録から、その真相に迫ります。
視察は「遊覧」ではなく「勤政」の証
康熙帝は中国史上、地方を巡幸して社会の実情を把握した皇帝の中でも、最も頻繁に活動した一人です。正史『清実録・聖祖仁皇帝実録』では、康熙帝の巡幸に関する記述が数多く残されています。東は山東、西は陝西、北は辺境、南は江蘇・浙江に至るまで、特に首都周辺地域にはたびたび足を運びました。
康熙帝の訓戒をまとめた『聖祖仁皇帝聖訓』にも、地方視察を意味する「省方(しょうほう)」という一章が設けられており、彼がいかに現場主義の統治を行っていたかが如実に示されています。雄大な泰山、聖地・五台山、広大な草原、そして風情ある水郷――。これらすべてに彼の足跡が残されていますが、その目的は単なる物見遊山ではなく、社会の実情を直接把握するための「勤政(きんせい)」の重要な一環だったのです。
治水と慰撫を目的とした「六回の南巡」
康熙帝の巡幸の中で最も有名なのが、1684年の第一回から1707年の第六回まで、計6回にわたる江南地方(現在の江蘇省、浙江省一帯)への「南巡」です。
主な目的は、黄河や洪沢湖の氾濫を防ぐための治水事業を直接確認することでした。同時に、清の統治下に入ったばかりの漢民族の知識層を慰撫し、儒教文化を尊重する姿勢を示すことで統治を安定させる狙いもありました。また、国の経済を支える穀倉地帯である江南の経済状況を把握することも欠かせない任務でした。
移動手段はいずれも大運河を経由した船旅で、北京から江南までの最長移動距離は1,278キロメートルにも及びました。神韻の演目『康熙帝のお忍び』も、この南巡の時代背景に基づいています。
民への迷惑を徹底して禁じた「倹約」の精神
康熙帝が巡幸で最も警戒したのは、自分の訪問が民衆の負担になることでした。彼の要求により、草、豆、木炭、食糧など、巡幸に必要な食糧や備品はすべて倹約を旨とし、民から無償で徴収することを厳禁しました。物資はすべて時価で購入することを徹底させ、これを監視する専門の官職「科道官」を同行させるほどでした。
随行する役人やその親族が、地方から贈り物を受け取ったり、権力を笠に着て民を騒がせたりした場合には、厳罰に処すと布告しました。通過する地域の民には「各自の生業に専念し、普段通りの生活を送るように」と伝え、皇帝が来るからといって遠方へ避難するような混乱を招かないよう配慮したのです。
儀礼よりも実利を重んじる
南巡において、康熙帝は随行員の人数を減らすことにも留意しました。堤防の視察中などは豪華な屋敷ではなく、簡易的なテントである「幄舎(あくしゃ)」に宿泊していました。それでも皇帝の行列となれば、警護を含めて300人を超えてしまいます。康熙帝が一箇所に三日以上留まらなかったのは、滞在が長引けばそれだけ地元に負担をかけることを恐れたからだと言われています。
しかし、皇帝の顔色を伺って豪華な「行宮(あんぐう/仮の御殿)」を建てたり、予算を私物化したりする不届きな地方官も絶えませんでした。本当は民に使うべき予算を費やしただけでなく、出費がかさばり、赤字の補填や私利私欲のために税収を増やすことが、民に重い負担を強いることとなりました。康熙帝はこうした弊害を深く理解していました。
「民が豊かであれば、国も豊かになる。民の豊かを望むならば、まず租税を免除し、賦役を減らし、雑税を撤廃すべきだ」と考えている康熙帝。巡幸による負担を相殺すべく、沿道の地域の地租や税をたびたび免除しました。例えば、康熙二十八年(紀元1684年)の二回目の南巡では、江南地方の民が滞納していた計220万両以上の雑税をすべて免除しています。また、康熙三十八年(紀元1699年)、康熙帝は三回目の南巡において、沿道の州と県、特に淮揚一帯(現在の江蘇省の中央部)では、前二回の南巡の時より景気が悪くなっていることを目にして、「これはすべて地方の役人が職務を適切に遂行せず、その恩恵が民に及ばなかったため」と見抜き、切実な措置を取り民への負担を軽減しようとしました。
さらに康熙帝は、減税政策は民の利益のためでしたが、単なる減税では農地を持つ富裕層しか得をせず、全人口の6割を占める土地を借りて耕作しており、その収穫はかろうじて日々の糧を賄う程度の「小作人」には恩恵が及ばないことに気づいたのです。そこで康熙帝は、地主たちに対し、小作人への地代を適切に免除するよう強く求め、社会の歪みを直接調整しようと試みました。
虚飾を排し、真の民意を尊ぶ
康熙帝の減税政策に感謝した人々が、彼を称える「碑亭」を建てようとしましたが、康熙帝は「これが各地で真似されれば、かえって民の負担になる」として、建立を中止させました。
康熙四十四年(紀元1705年)の五回目の南巡では、ちょうど康熙帝の誕生日が近かったため、官民がこぞって献上物を用意しましたが、康熙帝は「私がここに来たのは誕生日のためではなく、治水と民情を視察するためだ」と断じ、すべての献上品を辞退しました。儀礼よりも実利を、名声よりも民の安寧を優先する彼の姿勢がよく表れています。
「お忍び」伝説が生まれた理由
清王朝期には、民が公用車の通行を遮って直接訴えを起こすことがありましたが、これは安全面からも好ましくありませんでした。康熙帝は虚偽の告発を厳罰に処すなどの規定を設け、秩序を守るよう努めていました。また、揚州一帯についたとき、当地の民は老若男女を問わず慌ただしく行き交い、後れを取らぬよう皇帝のお顔を仰ぎ見ようとして、高い岸辺や水辺に登り、転落の恐れさえありました。そのため康熙帝は「道端に跪いて迎えるにとどめ、乱れて追いかけるようなことは決してしてはならない。そうしなければ、様々な問題が生じる恐れがある」と要求しました。
こうした警備上のリスクから、史実としての「頻繁なお忍び」は、警備上のリスクを考えれば難しかったと推測されます。ところが、康熙帝は巡幸の際、全く民と会わなかったわけではなく、むしろ巡幸先で積極的に民と触れ合いました。
例えば、山東を巡幸した時、巡幸団一行が通り抜けた町々では、老若男女が道端に並び、彼らを出迎えました。その際、康熙帝は道端の民に収穫の状況を尋ね、「ここ数年は豊作続きで、民の暮らしもようやく落ち着きを取り戻した」と答えられました。
船旅の多い南巡では、官民が両岸に集まり、御列を迎えました。陸旅の多い西巡では、町々の官民は皆、老若男女を連れ、道端で歓声を上げていたのです。康熙帝は官民が御車のそばまで来て当地の状況の報告を許し、皆が気兼ねなく意見を述べたそうです。さらに、徳州を巡幸した際に、道端で避難民が数人さまよっているのを見かけ、彼らの苦境を尋ねて、気遣いを示しました。
民を深く思いやり、迷惑をかけることを何よりも嫌った康熙帝の誠実な姿勢が、愛と尊敬を集め、やがて「実は身分を隠して助けてくれたのではないか」と庶民の間で語り継がれるうちに、悪徳官吏を成敗するヒーローとしての「お忍び物語」へと昇華していったのでしょう。
神韻芸術団の舞踊劇では、こうした伝説の一つが鮮やかに再現されています。被災地にいち早く駆けつけ、飢えに苦しむ民を救おうとしたが、横暴を働き私腹を肥やす役人たちの姿を目にした康熙帝。彼がどのような結末を導き出すのか――。
今年も神韻芸術団の日本公演が開催されています。東京(新宿・八王子)、鎌倉、京都、神戸、福岡の各都市に加え、東京国際フォーラムでの追加公演も決定しました。伝統的な美意識が宿る衣装と、東西の楽器を融合させた生演奏のオーケストラ。神韻でしか味わえない、魂を揺さぶる感動的な舞踊劇を、ぜひ劇場でお楽しみください。
チケット購入はこちら:
https://ja.shenyun.com/
(翻訳編集・常夏)
