清王朝の康熙帝の政権時、山東省郯城(たんじょう)県から莒(きょ)县に至るに渡り、マグニチュード8.5にも及ぶ大地震が発生していた。死者5万人を出したこの驚愕の地震は、後世に郯城大地震とも呼ばれている。このたび、この大震災を記載した二つの古碑が新たに発見された。

一つは済南市高新区孫村鎮西盧村にあった。文化大革命(1966年-1976年)の際に推し壊され、その後は石閣の階段に嵌め込まれたこの古碑は、長年の踏みつけにより酷く磨損し、多くの刻字は既にぼやけていた。当時、石閣にはある小さな廟があったそうだが、古碑には正にその廟の修復時の様子が綴られていた。

縦130センチ、横65センチのこの古碑は「とこしえに名声を留める」と題されている。上段のぼやけた刻字は微かながら「皇清戊申の夏日に東土の地震でこの廟も逃れず全壊」と読み取ることができ、刻印の日付は十六年となっている。「皇清戊申」とは康熙七年、即ち1668年である。この記述は、廟のような建物は勿論のこと、多くの民宅を物ともせずに倒壊したこの地震の破壊力を物語っていた。

もうひとつの古碑は、数十キロ離れた章丘市内相公荘鎮のエンジュ林に位置している。

現地民のお話によると、この古碑は以前関帝廟という廟に置かれていたが、廟自体が存在しなくなった為、訪ねる人も滅多にないとのこと。樹林の側に静かに横たわっている古碑は、縦130センチ、横55センチ、基盤はどこかに無くされていた。日付が乾隆六年とし、「峰峪庵関帝廟碑記」と刻印され、「水旱の度に村民の祈願は叶えられ、皇帝の御利益も広く顕われた。康熙七年に地震で廟が全壊したが、毅然たる信念により立て直せた…」と綴られている。西盧村の刻字内容と相似しており、年度も定められ、地震の破壊力に対する描写も同じく「廟が全壊」だった。

震度は最大値の12度に到達

歴史資料によると、1668年7月25日8時頃(清朝康熙七年、旧暦六月十七日戌の時)、山東省、河南省、浙江省などの地区で同時地震が発生したが、及ぼした範囲からして類を見ないとされる巨大地震であった。なかでも、山東省郯城県、莒県周辺が特に被害が酷く、郯城県の馬頭鎮だけでも死傷者が何千人もなるという。資料では、この郯城大地震を中国地震観測史上、マグニチュードと震度が共に最大級の地震と見なしており、マグニチュードは8.5、震度はなんと計測値最大値の12度にも到達したと明かした。

山東省地震局は、この地震は紛れもなく中国地震史上未だかつてない最大級の震度であると説明している。あらゆる歴史資料にも明確に記載しているが、上記二つの古碑の発見は、客観的にもこの大震災の発生を裏付けている。

(翻訳・梁一心)